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謎の神武東征㉔ 初期高句麗は「熊本」にあった

これで神功皇后が攻めた「新羅」が鹿児島県下にあった事はほぼ確実となった。

しかし『神功皇后記』によれば、「高句麗・百済も朝貢を誓った」とあるのだから、両国も鹿児島付近にあったはずである。

朝鮮の正史である『三国史記』を見ると、[高句麗本紀]にその移動の跡がはっきりと記録されていた。

高句麗では王を埋葬した地名を「諡号(死後の贈り名)」として使っているが、その「地名=王名」が移動と時代を証明している。

高句麗王たちの埋葬地名による諡号を見ると、9代「故国川王=コマガワ=クマガワ」・16代「故国原王=コマゲン=クマゲン」・17代「小獣林王=オジュウリン=イジュウイン」・18代「故国壌王=コマジョウ=クマジョウ」などと読める。

これは「クマガワ王=球磨川王(熊本)」「クマゲン王=熊毛の王(鹿児島)」「イジュウイン王=伊集院王(鹿児島)」「クマジョウ王=隈城王(鹿児島)」となり、現在も南九州に存在する地名に一致する。

しかし、「高句麗は現在の北鮮から満州に興った国で、九州とは関係がない」と思われている方も多いだろう。

高句麗という固有名詞の起源は、漢帝国が設置した玄菟郡の高句驪県に由来すると言われ、史料には高句麗王に先立って高句麗侯があらわれるが、史書によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。

以下、高句麗の建国神話を見てみよう。

『朱蒙の名の由来は扶余の言葉で「弓の達人」と言う意味である。

朱蒙は名の如く「弓の達人」であり、将来必ず異心を抱くとして夫余国の人々は排除を望んだが、王は朱蒙を庇い馬の世話を命じる。

しかし、朱蒙が駄馬を良く世話して肥し駿馬には餌を与えず痩せ細らせることで王を駄馬に乗せ自らへ駿馬を賜らせることに成功し、また狩りへ出ると少ない射撃で多くの獣を傷付けたため、夫余国の人々は再び朱蒙の暗殺を企てた。

陰謀を察知した朱蒙の母が逃亡を促すと、朱蒙は烏伊・摩離・陝父(ウイ・マリ・ケフホ)の3人と共に、淹淲水を渡って逃げようとしたが舟がない。

そこで水に向って「私は天帝の子、河伯の外孫である。救けてほしい」と祈ったところ、魚やスッポンが浮び出て来て橋になってくれたので渡って逃げることができた。

その後ある川に出た時、菜っ葉が流れて来たのを見て上流に人が住むことを知り、進んで行くとフルという国についた。

国王「松譲王」に会いに行くと、王は、「海の片隅に都していて海外のかた方に会ったことがなかった。今日、お目にかかれて幸せである。しかし、吾子はどこから来られたか?」と聞く。

朱蒙は答えて、「私は天帝の子である。天命をうけてこの国を治めに来て、すでに都を定めた」と言うと、松譲王は、「私は代々この国の王である。狭い国に二人の国王はいらない。私の家臣になりなさい」と言う。

朱蒙も怒って、「それは失礼な言い方だ。それならどちらが王にふさわしいか、文武の力をくらべてみよう」と言い、力比べをしたが、松壌王がかなわないで降伏して国を譲った。

朱蒙は王となり、その国を「多勿郡」と命名し、松譲を郡主にした。』



この高句麗の建国神話を検証してみると、『日本書紀』神功皇后五年三月の項に、「迂(ウ)礼(レ)斯伐、毛摩利叱智、富(ホ)羅(ラ)母智」の三人が登場する。

この三人を「烏伊・摩離・陜父」と比較すると、「迂礼=ウレ」は沖縄語で発音すると「ウリ」で、「烏伊=ウイ」とはほぼ一致する名を持っている。

「摩離」と「毛摩利=ケマリ」は「毛」が多いが、どちらも「マリ」の名を持っている。

「陜父=ケホ」と「富羅=ホラ」は一見すると別人のようだが、「毛摩利」に本来「富羅」に入るべきはずの「毛」が誤入したと考えると「毛富羅=ケホラ」で、「ケホ」が一致する。

この六つの名前が、本来は三つであったことは間違いない。

「松譲王」は「ショウジョウ王」と読むと何の事か分からないが、「松=マツ」と読めば「政=マツリ」は南九州では「マツィ」であるから「マツリゴトを譲った王」であり、「マツユズリ王=国津譲り王=国の譲り王」に対する当て字ということで一致する。

「淹淲水」は『魏志東夷伝』では「施掩水」などと変っているが、どちらにも「奄」の字があり、「天=アマ」、あるいは「奄美=アマミ」が語源であり得る。

この物語は高句麗の話だから、朝鮮半島あるいはそれ以北の物語りだと現在に至るまで信じられて来たために、それが川の名のように受けとられ、編集者が適当に字を当てたのかもしれない。

「多勿郡」は「タコ」で「高来」と書くと「タキ」とも読めるが、鹿児島県の出水附近には「高城=タキ」の地名が現存する。

また「多勿」を「タコツ」と読めば、領土には編入しても前王を郡主にしたのだから、「託す=タクス」が、ス音のなかった時代には「タクツ→タコツ」となったとも考えられるし、朝鮮語の「タクタ=平らにする」から、「平らげた=平定した」が語源であったかもしれない。


ついでに、この王子「高朱蒙」の名も「高城」の「高」の字をもっていることに注意してほしい。

高句麗は朝鮮語だと思われて来たが、朝鮮語の中にはその真意のわかる近縁語のない孤立したことばである。

ところが、「リ」を朝鮮訛りと考えて日本語に還元して比較してみると、われわれが「鍛冶(カジ)屋もの」と呼ぶべきものを、「コリ(環、締め金具など)」と呼び、「ジ」が「リ」になっている。

さらに朝鮮語では、「未時=ミジ=前もって」が「ミリ」、「里辞=サトジ=方言」が「サトリ」などであるし、比較的古いものにしか見られないが、「水=ミズ」を「ミル」といったり、「産物=サンブツ」を「サアンムル」と言ったりする。

「タ行」「ザ行」が「ラ行」になるクセは現代語にも見られるから、「高句麗」の原音は「高クチ」か「高クジ」であったと考えられる。

それも「高クチ=コークチ」「高クジ=コークジ」ではなく、「タカクチ」「タカクジ」であったと考えられる。

そのわけは本来が「高城=タカギ」「建=タケ」「猛=タケ」という「タカ」「タケ」をモチーフとした名が基になっているらかだが、ではこの「クジ」は何を意味するのであろう?

それは「久爾=クニ」あるいは「玉璽=ギョクジ」と使われる「ジ」の用字音と同じく、「ニ」の転靴したもので、「タカクニ=高国」の朝鮮訛りとなる。

つまり「多勿郡=タカクニ」と同じものだったのである。

『日本書紀』の中には「貴国」と書いて「タカクニ」と読ませたものがあり、これまで、それはすべて日本に対する尊称として扱われて釆たが、本来は「高句麗」が本家であった。

もちろん、どちらも同祖であることは明らかだが、厳密には区別の必要なものなのである。

また「高麗=コウレイ・コウライ」と書いて「コマ」と読む謎も、朱蒙の養父である扶余王「金蛙=コムア」の縮まったものも「コマ」であり、「多勿郡=タカクニ=高国=コマ」であったからだ。

そして地名によってつけられた高句麗王たちの諡号が、[熊毛王][球磨川王][伊集院王][隈(くま)之城王]と並んだあと「球磨」から「熊本県」に広がるが、それは「高麗本(=クマモト)県」と書いてもいいものだったのである。

また高句麗第7代王の「次大王」は「遂成(スイジョウ)」という名をもっているが、この名は『三国志』の前の中国正史『後漢書』の中に出てくる「倭・面土国」の王「帥升(スイショウ)」とごく近い発音の名をもっている。

そして「面土」の発音は「ミヤンヅウ」で、これは鹿児島県の「宮之城=ミヤノジョウ」の実際の発音に一致する。


つまり「朱蒙」の建てた「高句麗」とは「高国=コマ」であり、「高国本=熊本」だったのだ。









続く
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テーマ : 歴史&スピリチュアル・ミステリー
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プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

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