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謎の神武東征㉒ 「神武天皇」が移動したのは新羅の領地

新羅が鹿児島にあった証拠はまだたくさんある。

『魏志倭人伝』のある『三国志』の『東夷(とうい)章』に書かれている当時の朝鮮半島の記事みると、そこには「新羅」などという国はどこにも記されていない。

私たちには、もう「神功皇后紀」の記事が、3世紀当時の歴史を書いたものだと、はっきり分かっている。

だから仮に皇后が本当に「朝鮮半島」を「侵略」したのなら、その相手の国名は『魏志倭人伝』にある国名と同じでなければならない。

ところが『記紀』には、『魏志倭人伝』に全く載っていない「新羅」という国名が使ってある。

これはこの「新羅征伐」が、朝鮮半島以外の土地での事件だからである。

それでもまだ納得いかないかたのために、少しだけ証拠を追加しておこう。
 
鹿児島では「ヒラキキ」は「ヒラキッ」で「ヒラ王津」という文字に相当する。
 
これは「ヒラの王の港」と考えればいいが、では「ヒラ」とはなにか。
 
それは「ラ」が、サカ語の「マ」と同じく、インド語の「国・地方」などを意味する言葉だったから「ヒ国(=ヒラ)」。

これは「日の国」か「火の国」と書くことができるから、「japamala ジャパンアーラー」に当て字した、「日本」という国名の古い形だったのだ。

つまり、「開聞=ヒラキッ=ヒラ王の津」という意味であり、「ヒラキ=日羅王=新羅王」なのである。。

新羅ももともと沖縄に発生した国で、トカラ列島の「平島」を経て島伝いに北上して大隈半島に上陸し、通過した後に「知覧(チラン)」・「始羅郡(シラグン)=『続日本紀』」・「姶良郡(アイラグン=アヒラグン)」「日奈具(ヒナグ)」を残して行った。

鹿児島方言は江戸っ子と同じく「<ヒ>と<シ>」が混乱するから、「始羅=シラ」と「姶良=阿ヒラ」はもともと同地名なのである。

その「姶良」はまた「カラ」とも読めるから「姶良郡」は古風に読めば「カラグ二」である。

このことは眼下に姶良郡を見る霧島連峰の最高峰が、「韓国見岳(カラグニミダケ)」と呼ばれることで充分証明されている。

そこからは決して朝鮮半島は見えないのだから、この「韓国=カラグニ」とは「姶良郡=カラグニ」の事で、「姶良郡=カラグニが一望できる」から「姶良郡見岳=カラグニミダケ=韓国見岳」なのである。


と、ここで『神武東征』を思い出して欲しい。

「神武天皇」が「ヤマト」を攻めるために一族を集めて協議したのが「高千穂宮」、すなわち霧島連峰の麓である。

そして「神武天皇」は「種子島」を経て「開聞」に入っているが、「種子島」は「新羅王子・アメノヒボコ」が攻め取った地であり、「開聞」は平島から逃れた新羅が移った場所だ。

つまり「神武天皇」は、「新羅と関連のある地域」を移動していたことになる。

いや、これは厳密に言うと、むしろ「当時の新羅の領地」だったのではないだろうか。

となると「神武天皇」がそれらの地域を訪れたとき、その土地の王や有力者が軍勢を率いて合流したり、宮殿を貸すなどして歓待しているのは、「神武天皇」が彼らの主君であったからだとすれば、彼らは主君を出迎えてその命令に従っただけであり、これは至って当たり前の事だったのだ。









続く
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まとめtyaiました【謎の神武東征㉒ 「神武天皇」が移動したのは新羅の領地】

新羅が鹿児島にあった証拠はまだたくさんある。『魏志倭人伝』のある『三国志』の『東夷(とうい)章』に書かれている当時の朝鮮半島の記事みると、そこには「新羅」などという国はど

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プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

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