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閑話休題 日本史に於ける呉越 ④

薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩として大きな影響力を持ったが、薩摩藩が、公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相いれない立場にあった。

薩摩藩は8月18日の政変で会津藩と協力して長州藩勢力を京都政界から追放、翌年の禁門の変では上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え敗走させるに至り、両者の敵対関係は決定的となった。

禁門の変の結果朝敵となった長州藩は、相次いだ「馬関戦争」「第一次長州征討」など、非常な窮地に陥ることとなった。

1865年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた。

高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行う。

「元治の内乱」である。


一方の薩摩藩でも文久2年8月21日(1862年9月14日)、横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士が殺傷する、「生麦事件」が発生。

翌文久3年7月2日(1863年8月15日)、生麦事件の解決を迫るイギリスは艦隊を薩摩に派遣し、薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を脇元浦において拿捕する。

これを宣戦布告と受け取った薩摩藩は、正午に湾内各所に設置した陸上砲台(台場)の80門を用いてイギリス艦隊に先制攻撃を開始。

「薩英戦争」の開戦である。


イギリス艦隊は、蒸気船を失った薩摩藩が戦意喪失すると考えて油断していたため応戦が遅れたが、100門の砲を使用して陸上砲台に対し艦砲射撃で反撃した。

うち21門が最新式のアームストロング砲であった。

イギリス艦隊司令のキューパー中将は、拿捕した白鳳丸、天佑丸、青鷹丸を保持したまま戦闘することは不利と判断し、貴重品を持ち出してから3艦を焼却した。

イギリス艦隊は台場だけでなく鹿児島城や城下町に対しても砲撃・ロケット弾攻撃を加え、城下で大規模な火災が発生した。陸上砲台や近代工場を備えた藩営集成館も破壊された。

薩摩藩の砲はイギリス艦隊に比べると射程距離が短かく、性能も劣っていたが、荒天のため艦隊の操艦が思うように行かず砲の照準も定まりにくいイギリス艦隊は予想外の苦戦を強いられた。

また薩摩藩は湾内沖小島付近に、集成館で製造した地上より遠隔操作できる水中爆弾3基を仕掛けて待ち伏せしていたが、艦隊は近寄らず失敗した。

10月5日(11月15日)、 幕府と薩摩藩支藩佐土原藩の仲介により代理公使ニールと薩摩藩が横浜のイギリス大使館で講和。

薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払う。

イギリスは、薩英戦争後の交渉を通じて薩摩藩側を高く評価するようになり、薩摩藩との関わりを強めていくこととなる。

一方の薩摩藩も欧米列強の軍事力を前に攘夷の難しさを痛感し、また自藩の主張する幕政改革の展望を開くことができず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていくこととなった。


こうして「馬関戦争」「薩英戦争」を通じて欧米列強と戦った両藩は、この後急速に接近する。

長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。

土佐藩の脱藩浪人で長崎で貿易商を営んでいた坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進めらた。

下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、慶応2年1月21日(1866年3月7日)、薩摩藩主席家老・小松帯刀邸で坂本を介して薩摩藩の西郷・小松と長州藩の木戸貫治が6か条の同盟を締結した。

「薩長同盟」の締結である。


一方「元治の内乱」に危機感を募らせた14代将軍・徳川家茂は大坂城へ入り、「第二次長州征伐」を決定する。

しかし萩口からの攻略をを命じられた薩摩藩は、薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否したため萩口から長州を攻めることができず、4方から攻めることになった。

幕府は大目付永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。

1866年(慶応2年)6月7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、13日には芸州口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。

征討軍は守備兵を容易に退け大島へ上陸・占領を果たしたが、占領した集落で松山藩兵が住民に暴行・略奪・虐殺を行った惨状の結果、大島住民の敵意と長州藩兵の士気を高め、同時に奪還論が強まり長州上層部は大島放棄から大島奪還に方針転換。

小倉口を担当する高杉晋作や本土防衛と芸州口の対処のため柳井に駐留していた世良修蔵が大島奪還の為に来援する。幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、夜間奇襲戦法により幕府海軍は敗走した。

その後、世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが大島の奪還を果たすも、島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討が終戦まで続く。

芸州口では、長州藩および岩国藩の連合軍と、幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が行われる。

彦根藩と高田藩が小瀬川であっけなく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に代わって戦闘に入ると、幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着状況に陥る。また芸州藩は幕府の出兵命令を拒んだ。


石州口は、大村益次郎が指揮し、中立的立場を取った津和野藩を通過して徳川慶喜の実弟・松平武聰が藩主であった浜田藩へ侵攻し、18日に浜田城を陥落させ、明治まで浜田城と天領だった石見銀山は長州が制圧した。


最大の激戦地であった小倉口では、総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉晋作・山縣有朋ら率いる長州藩との戦闘(小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われたが、小笠原の指揮はよろしきを得ず、優勢な海軍力を有しながら渡海侵攻を躊躇している間に6月17日に長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われる。

その後も小笠原の指揮の曖昧さもあって諸藩軍・幕府歩兵隊とも積極的に戦おうとはせず、小倉藩が単独抗戦を強いられる状態だった。また佐賀藩は出兵を拒んだ。

7月下旬の赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川家(元・小倉城主)の軍が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せた。

しかし依然として小笠原総督の消極的姿勢は改まらなかったことから、肥後藩細川家を含む諸藩は一斉に撤兵し、孤立した小倉藩は8月1日小倉城に火を放って香春に退却した。

その後、小倉藩は家老・島村志津摩らの指導により軍を再編して粘り強く長州藩への抵抗を続け、戦闘は長期化してゆくこととなるが、これで事実上幕府軍の全面敗北に終わる。


将軍後見人・一橋慶喜は、大討込と称して自ら出陣して巻き返すことを宣言したが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止。

さらに7月20日、将軍家茂が大坂城で急死したことが知らされると、ここに一橋慶喜は朝廷に働きかけ、休戦の御沙汰書を発してもらう。

慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息した。

しかし朝廷の停戦の勅許と幕府・長州間の停戦合意成立にもかかわらず、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しなかった。

やがて企救郡南部の小倉藩の防衛拠点の多くが陥落するに及んで小倉・長州両藩間の停戦交渉が始められ、1867年(慶応3年)1月にようやく両藩の和約が成立している。

この和約の条件により、小倉藩領のうち企救郡は長州藩の占領地とされ、1869年(明治2年)7月に企救郡が日田県の管轄に移されるまでこの状態が続くこととなった。



続く
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プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

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