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閑話休題 日本史に於ける呉越 ②

さて、関ヶ原の戦いから250年が経過し、1853年の「太平の眠りを醒ます蒸気船」、いわゆる「黒船来航」により、日本は幕末の動乱に突入する。

この時、尊皇攘夷が最も盛んだった雄藩のひとつが、関ヶ原の戦いで減封のうえ国替えとなった、長州藩の毛利家である。

この「尊皇攘夷」という言葉だが、これももともとは中国の故事である。

尊王攘夷とは、王を尊び、外敵を撃退しようとする思想で、古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄を打ち払うという意味で春秋の覇者が用いた標語である。

周王朝の天子は「王」の称号を用いていたため、本来は「尊王攘夷」なのだが、日本の天子は「天皇」であるため、「王」を同じ発音である「皇」に置き換えた「尊皇攘夷」が我が国では一般的となった。


1863年、将軍・徳川家茂が天皇に対し、5月10日を攘夷決行の日とすることを約束。

長州藩はこれを受けて下関に砲台を構え、5月10日、馬関海峡を通過するアメリカ商船を砲撃、攘夷を実行に移す。

しかし長州藩が欧米艦隊から報復攻撃を受けるに及んで他藩はこれに続かず、攘夷実行を約束した将軍家茂も、6月には京を離れ江戸に帰ってしまう。

この長州藩の窮状を打開し、国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)が尊攘急進派によって企てられた。

大和行幸の詔は8月13日に発せられたが、前後して会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を画策。

8月15日、会津藩主・京都守護職である松平容保の了解のもと、 薩摩の高崎正風と会津の秋月悌次郎が中川宮を訪れて計画を告げ、翌16日に中川宮が参内して孝明天皇を説得、天皇は熱心な攘夷主義者ではあったものの、急進派の横暴を快く思っていなかったため、翌17日に天皇から中川宮に密勅が下った。


いわゆる「文久3年8月18日の政変」である。

これによって大和行幸の延期や、尊攘派公家の公職追放、長州藩主・毛利敬親・定広父子の国許での謹慎などの処罰が決議され、長州藩は堺町御門の警備の任を解かれて京都を追われることとなり、19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知などの公家7人とともに、妙法院から長州へと下った(七卿都落ち)。

また政変後、孝明天皇は「去る十八日以後に申し出でし儀の者、これ真実にして朕が意に存ず」としてこれまでの攘夷の勅命を自ら否定した。

なおこの政変に際し、かつての「越」の有力大名で、関ヶ原の敗戦により米沢に減封・国替えとなっていた上杉藩は、公武合体派としてクーデターに加わり、18日に藩兵を率いて御所の警備についている。

かつての「呉越の因縁」はここでも見え隠れしていたのだ。

政変に敗れた長州藩は京都における失地回復を狙い、翌年6月の池田屋事件をきっかけに京都へ出兵、7月の禁門の変で会津・薩摩らと戦火を交えることとなる。



続く

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プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

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