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謎の神武東征㉝ 「海幸山幸の伝承」

「ホオリ」が「神武天皇」であり、「位宮」「伊支馬」と同一人物である事は分かったが、ここで「ホオリ」が登場する「海幸山幸」の伝承を見てみる事にしよう。


兄のホデリは海佐知毘古(うみさちびこ)として大小の魚をとり、弟のホオリは山佐知毘古(やまさちびこ)として大小の獣をとっていた。

ある時ホオリは兄のホデリに、それぞれの道具を交換してみることを提案し、ホデリは三度断ったが、少しの間だけ交換することにした。

ホオリは兄の釣針で魚を釣ろうとしたが1匹も釣れず、しかもその釣針を海の中になくしてしまった。

兄のホデリも獲物ることができず、「山の幸も海の幸も、自分の道具でなくては得られない」と言って自分の道具を返してもらおうとした。

ホオリが釣針をなくしてしまったことを告げると、ホデリはホオリを責め取り立てた。

ホオリは自分の十拳劔から1000の釣針を作ったが、ホデリは「やはり元の釣針が欲しい」として受け取ろうとしなかった。

ホオリが海辺で泣き悲しんでいると、そこに塩椎神(しおつちのかみ。潮流の神)がやって来て、ホオリが事情を話すと、塩椎神は小船を作ってホオリを乗せ、綿津見神(海神・わたつみ)の宮殿へ行くように言った。

教えられた通り綿津見神の宮殿へ行き、そこで待っていると、海神の娘のトヨタマヒメの侍女が水を汲みに外に出て来た。

ホオリが水が欲しいと求めたので、侍女は水を汲み器に入れてホオリに差し上げると、ホオリは水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れた。

すると玉が器にくっついて離れなくなったので、侍女は玉のついた器をトヨタマヒメに差し上げて、事情を話した。

不思議に思って外に出てみたトヨタマヒメは、ホオリを見て一目惚れした。

父である海神も外に出て、そこにいるのが天孫ニニギの子の虚空津日高(そらつひこ・ホオリの尊称)であると言い、すぐに娘のトヨタマヒメと結婚させた。

こうして、海神の元で三年間暮したが、 三年間たって、ホオリはここに来た理由を思い出し、深い溜息をついた。

海神が溜息の理由を問うたので、ホオリはここに来た事情を話した。

海神は魚たちを呼び集め、釣針を持っている者はいないか問うと、赤鯛の喉に引っかかっていることがわかった。

海神は釣針と鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)をホオリに差し出し、「この釣針を兄に返す時、『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、心が落ち着かなくなる針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。兄が高い土地に田を作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」と言った。

そして和邇(わに/鮫の事)に乗せて送って差し上げた。その和邇は今は佐比持神(さいもちのかみ)という。

ホオリは海神に言われた通りに釣針を返し、言われた通りに田を作った。

海神が水を掌っているので、兄のホデリの田には水が行き渡らず、ホデリは貧しくなっていった。

さらにホデリが荒々しい心を起こして攻めて来たが、ホオリは塩盈珠を出して溺れさせ、火照命が苦しんで許うと、塩乾珠を出して救った。

これを繰り返して悩み苦しませるとホデリは頭を下げて、ホオリに昼夜お守りすると言った。





続く
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謎の神武東征㉜ 「神武天皇」は新羅・高句麗連合の「オオキミ」

前回私は、「高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)が位宮の陵墓だ」と断言した。

これは陵墓の名前が、「高句麗の延優の山上陵」を指しているからに他ならないが、古来この陵墓に葬られているのは、日本神話の「ホオリ」と言われる人物だと信じられてきた。

「ホオリ(火遠理)」は日本神話に登場する人物で、山幸彦と海幸彦の説話に登場し、一般には山幸彦(やまさちひこ)(山佐知毘古、やまさちびこ)の名で知られ、 神武天皇の祖父に当たるとされる人物だ。

そして「ホオリ」は別名を 「天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)」、「日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)」と言うのだが、この「ヒコホホデミ」、どこかで聞いたことはないだろうか?

そう、あの「神武天皇」の別名である「彦火火出見(ヒコホホデミ)」と同じ名乗りなのだ

もっとも『記紀』だけを読んでいる分には、「神武天皇は祖父のホオリの名を受け継いだのだ」として読み飛ばしてしまう事もできる。

しかし私たちは、「高屋山上陵」に眠っているのが「高句麗王・位宮」であり、「邪馬壹国の王」であった「伊支馬」だと知っている。

そして「位宮」も「神武天皇」も、「卑弥呼の政権=ヤマト」を攻めた側にいた人物だ。

となると「神武天皇」と「ホオリ」、そして「位宮=伊支馬」は同一人物であった可能性が高い。


まず「ホオリ」であるが、この名前は「コオリ」の訛ったものであるとすると「コオリ=コウリー=高麗」に通じる。

また「天津日高日子穂穂手見」の「天津」は「天の=チヌ=沖縄」を指し、「日高」は「日と高=日国(ヒラ)と高国(タカヤ)」で「新羅と高句麗」を指している。

「日子」は「彦」で「王」の事だから、これは「沖縄・新羅・高句麗の王のホホデミ」との名乗りだ。

そして「ホホデミ」の「ホホ」は「ホホ=朴」に通じ、「デミ」を「出水」と当て字すると・・・

何と!「天津日高日子穂穂手見」は「沖縄・新羅・高句麗の王、朴・出水」となり、「神武天皇」「新羅」「高句麗」「瓠公」に関連する全てを含んだ名乗りとなるではないか!

また「ホホ」を「ホー」と読んで「豊」と当て字すれば、これは種子島の古代名称のひとつである「豊津国=ホツマ」、すなわち「新羅王子・アメノヒボコ(昔氏)」が攻め取った「多児国=タジマ」だ。

さらに「山幸彦=ヤマサチヒコ」も「邪馬差治彦」と書けば、これは「邪馬(壹)を差配して治める王」との意味で、「邪馬壹王・伊支馬」と完全に一致する。

またこれまでの検証で明らかになったとおり、「位宮」は沖縄を領地に持つ高句麗王で「伊支馬」と同一人物だし、「神武天皇」は「瓠公=彦ホホデミ」として新羅王・赫居世と同等の権力を持っていた事が分かっている。

だから「天津日高日子穂穂手見」の「沖縄・新羅・高句麗・種子島・出水」とは、「位宮」と「瓠公」の勢力範囲を合わせた名乗りであるから、「位宮」が新羅では「瓠公=ココウ=高公」と呼ばれ、「新羅・高句麗連合の王」となった事を指しているのではないか。

とすれば、神武天皇の祖父の「ホオリ」の別名とされる「天津日高日子穂穂手見」は、東征当時の「神武天皇」の勢力圏であり、名乗りでなくてはおかしい。

つまり「ホオリ」と「神武天皇」は同一人物であり、また「神武天皇」は「高句麗王・位宮」「邪馬壹王・伊支馬」で、新羅にあっては「瓠公」と呼ばれていたのだ!


また、さらに深くこの名乗りを見ていくと、新羅では「瓠」は「朴」と同じ意味なのだから、「瓠公」は「朴公」と書いても差し障りない。

この「朴公」を「ホホギミ」と読めば、「ホホデミ」とは一字違いの極めて似通った発音となる。

そして「ホホ」を「オオ」と訛って読んだとすれば「オオギミ」、つまり古代の天皇の称号である「オオキミ(大王・大君)」と同じになるのだ.

「天津日高日子穂穂手見」は、ズバリ、「沖縄・新羅・高句麗連合の大王」との名乗りでもあったのである。








続く

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謎の神武東征㉛ 「山上王・位宮」は「邪馬壹王・伊支馬」

「生き馬の目を抜く」のことわざを引き合いに出したのは、単なる駄洒落ではない。

「位宮国」を「イキュウマ=生き馬」と読むと、『魏志倭人伝』に記録されたある人物が浮かび上がってくるのだ。

それは「邪馬壹国の筆頭官」であるとされる「伊支馬(イシマ)」である。

以前、中国の史書には邪馬台国に関して、「邪馬臺と邪馬壹の二つの表記がある」とお話したが、その「邪馬壹国の筆頭官」だ。

この「伊支馬」と「位宮」がどう関連するのか、検証してみよう。

まず「生き馬」は「イキマ」と読むと、「伊支馬=イキマ」と同じ発音であるし、「位宮」を「イキウ」と読めば、「イキウ国」は「イキウマ=生き馬=伊支馬」だ。

また「イキマ」は当て字すると「壱岐国」「イキウ」も当て字すると「壱岐王」だから、彼は「壱岐を領土に持つ王」でもあったのだ。

そして沖縄・南九州では「琉球」を「リキュウ」と発音するが、朝鮮語では「李=リ」を「イ」と発音するから、「位宮=イキュウ=リキュウ=琉球」で「位宮」とは「琉球」の朝鮮語訛りであった事になり、「位宮王=琉球王」となる。

つまり「位宮」は「高句麗王」として熊本・北鮮を領有していたばかりか、「壱岐王」「琉球王」として壱岐・琉球をも領土としていたのだ。

しかし彼は魏に敗れて北鮮を追われて熊本に戻り、赫居世に協力して卑弥呼の倭国に対し戦いを起こした事は既に検証済みだが、これを裏付ける証拠が『三国史記』に記載されている。

『三国史記・高句麗本紀』には、「位宮の死後、山上陵に葬ったので、山上王と諡した」とあるが、これだけの大領土を治めた王であり、『三国志・高句麗伝』が特筆大書している人物である。

その大物が「山の上の陵」と言う、ありきたりな場所に埋葬されるであろうか。

この「山上」は、もっと大きな意味を持っているはずである。


ここで「山上」を「サンジョウ」ではなく「ヤマカミ」と読めば、この「ヤマ」に対応する国名は「邪馬」「邪馬臺」「邪馬壹」である。

また「位宮」は「イキウ」で、これを沖縄語で読めば「イチウ=イチ王」、そして「邪馬壹国の筆頭官」は「伊支馬=イチマ=壹国」だ。

これらを総合してみると、「邪馬壹王」は「ヤマイチウ」だから、これは「山位宮」と当て字しても沖縄語では同じものだったのだ。

また「位宮」の別名は「延優(エンユウ)」とも記されているが、鹿児島県には「神代三山陵」のひとつである、「高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)」がある。

このうち「高屋」は「国」を「ラ」「マ」「ヤ」「ナ」と呼んだ名残だとすると「高屋=タカヤ=高国」で「高句麗」の事だし、「延優」の「エノ=エン」と「山上王」の「山上」という、「位宮」の二つの名乗りが重なっている。

この場所こそ「山上王・位宮」の陵墓なのであり、彼はその場所で今も崇め続けられている「山上=ヤマガミ=山神」なのだ。











続く






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謎の神武東征㉚ 「生き馬の目を抜く」大王、「位宮」

ここまで『記紀』の「タカクラジ」が「高句麗東川王・憂位居」であり、「高句麗山上王・位宮」と同一人物である事が分かった。

ここで『三国志・高句麗伝』を見てみると、「位宮」の名前の由来について、以下の記述を見つける事ができる。

「伊夷模に子がなく、灌奴部の女に淫して生ませた子を位宮と名づけた。伊夷模が死ぬと立って王となる。今の句麗王「宮」である。その曽祖父の名も『宮』。句麗では相似を『位』と言う。その祖と似るゆえに名を位宮とした」

「伊夷模(イイボ)」とは『三国史記・高句麗本紀』に言う、高句麗第9代の故国川王である。

以前に「故国川王=コマガワ王=球磨川王」として紹介したあの王だ。

この「故国川王・伊夷模」と灌奴部の女との間に生まれた庶子が「位宮」なのだと言う。

そして「位宮」は曽祖父の「宮」に似ていたので、高句麗語で「宮に似る」との意味の「位宮」と名付けたと言う。

この「宮」は、「倭面土国王・帥升」と同一人物の「次大王・遂成」の兄に当たる「太祖大王・宮」である。

では「位宮」は、何が「太祖大王・宮」に似ていたのだろう。

夏侯湛の『魏書・高句麗伝』には、さらに詳しく記されている。

「(太祖大王・宮は)生まれたときから目を開け、視力があったが、国人はこれを不吉とした。長じると凶暴にして残虐、国は無残に破れた。宮の曾孫の位宮もまた生誕時から視力があり、曾祖父の宮に似ているので、位宮と名づけた」

「位宮」は「太祖大王・宮」に似て、生まれたばかりの頃から視力があったのだと言う。

しかし高句麗の人々はこれを「不吉だ」とした。

一体なぜだろう?

それは『後漢書・高句麗伝』に記されている「太祖大王・宮」が、朝鮮半島に進出して周辺諸国に侵攻し、後漢に服属を誓ったかと思えば、今度は逆に後漢の国境を荒らし、終には国を危うくしたからに他ならない。

そして「位宮」も「宮に似る」との名前の通り、魏に援軍を出して服属したかと思えば、今度は魏の国境を侵犯して大敗し、半島から逃げ帰っている。

まさに「宮」も「位宮」も、油断も隙もない「暴れん坊大王」だったのである。


そう言えば我が国では、油断も隙もない事をことわざで、「生き馬の目を抜く」と言う。

このことわざには他にも、「生きている馬の目を抜くほど、素早く事をする様」「ずる賢く立ち回り、他人を出し抜いて素早く利益を得る事」などの意味があるが、まさに「宮」や「位宮」にピッタリである。

何より「位宮国」と書けば、これは「イキュウマ=生き馬」であり、「目を抜く」の「目」も、「 生まれたときから目を開け」を何となく想像させる

案外このことわざ、本来は「位宮国の目を開く」が語源で、それが訛ったものなのかも知れない。







続く





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謎の神武東征㉙ 「憂位居」と「位宮」は同一の「高句麗王」

しかしこの「東川王・憂位居」だが、朝鮮の『三国史記』には記録があるが、中国正史にはその名は全く登場しない。

『梁書・高句麗伝』には、

「景初二年(238年)、太尉の司馬王仲達は大軍を率いて公孫淵を討伐。『位宮』は主簿と大加を派遣し、千人の兵を率いて援軍に向かわせた」

「正始三年(242年)、『位宮』が西安平を侵略した」

「正始五年(244年)、魏の幽州刺史の毋丘倹が万余の兵を率いて玄菟を出て、『位宮』の討伐に向かった」


と、いずれも「位宮」と記載されている。

この「位宮」とは、「東川王・憂位居」の父で先代王とされている、高句麗第10代王・山上王の事だ。


なぜ『三国史記』と『梁書・高句麗伝』でこの様な相違が起こったのだろう。

そもそも『三国史記』は朝鮮の正史ではあるが、実際には高句麗・新羅・百済などの歴史を集めて1145年に完成したもので、新羅が高句麗を滅ぼして朝鮮を統一したのが668年なのだから、高句麗の滅亡後、約500年も後に作られたものなのだ。

そして『三国志』や『魏志倭人伝』の時代は、その668年をさらに400年以上さかのぼる3世紀中頃の出来事なのだから、900年も前の記事を編集したことになる『三国史記』は、その分間違いも多くなって当然である。


一方の中国正史は、前王朝の滅亡後間もなくに完成したものがほとんどで、しかもその作成にあたっては「正確さとスピード」が求められた。

一例を挙げると、「陳寿」の『三国志』は「中国正史の鑑」と高く評価されているが、彼だけが三国志を書いた訳ではなかった。

『三国志』より以前には、「魚豢(ぎょわん)」が『魏略』を著しているし、陳寿と同時期には「夏侯湛(かこうたん)」が『魏書』を書いている。

しかし夏侯湛は、陳寿の『三国志』を見て自分の編集が恥ずかしくなり、その『魏書』を引き破ってそれきり筆を置いてしまったと言う。

この様に「中国正史の編纂」とは、「正確さと早さを競うレース」なのだ。

そして同じ原史料から歴史を編纂したにもかかわらず、後世にここまでの差がついたのは、「陳寿の三国志が早く正確だったから」に他ならない。


少し話が横に逸れたが、つまり中国の正史は、すべてとまではいかないが、「比較的正確」と言える。

特に日本や朝鮮などの他国の記述に関しては、彼ら中国の史家は誰にも遠慮する必要がないのだから、原史料のまま正確に記載する。

だから『三国史記』と『梁書・高句麗伝』の王名の違いは、『梁書』が記録している「位宮」の方が正しいと言って差し障りない。


それでは「中国正史」に記録されていない「憂位居」とは誰なのだろう?

その謎を解くのが、彼のフルネームである「高憂位居」なのだ。

私はこの「高憂位居」を「コウウクライイ」と読み、これを「コウークライー」と伸ばし、短く発音する南九州語では「コウクライ」だとした。

するとこの「コウクライ」は、「高句麗」と一見して同じものだと分かる。

そして「高憂位居」は王なのだから、「高憂位居王」と書くと「コウクライ王=高句麗王」だから、これは官職名を指した当て字から生まれたものだったのだ。

また「位宮」のフルネームは「高位宮」だが、これも「コウクライノミヤ」と読める。

この「宮=ミヤ」は、現在でも皇族を「〇〇宮殿下」と呼ぶように、王や王族を指すと見れば「高位宮=コウクライノミヤ=高句麗王」となる。

「高位宮」も「高憂位居」も、突き詰めれば「高句麗王」との名乗りから分裂した名前だったのだ。

さらに「位宮」を南九州語発音で短く「イキュ」と読めば、沖縄語で「キャ・キ・キュ・ケ・キョ」は「キャ・キ・キュ・キ・キュ」だから、「キョ=キュ」となり、「位居=イキョ=イキュ=位宮」だ。

つまり、「位宮」と「憂位居」は同一人物で、『中国正史』では「山上王・位宮の一代記」だとされている記事が、『三国史記』では、「前半が憂位居」「後半が位宮」と分裂してしまっていると言える。

この証拠として、『三国史記・高句麗本紀』では位宮の没年は227年だとするが、その後も位宮は中国正史に多数の記述があり、『梁書』によれば正始六年(245年)まで活躍している事も、その事実を物語っていると言えよう。








続く




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閑話休題 謎の神武東征・アナザーヒストリー①

※お断り:この「アナザーヒストリー」に関しては、あくまで資料などの裏付けが取れていない、筆者の思いつきと妄想です。あらかじめご了承くださいm(_ _)m


魏の猛攻を受けて高句麗軍は壊滅し、東川王・憂位居は本国の熊本へ逃亡する。

しかし生き残った全員が、憂位居と共に本国へ戻れたとは思えない。

中にはどうしても本国へ戻れず、魏の追っ手の及ばない「新天地」を目指した一団がいたのではないだろうか。

「謎の神武東征㉘」で、「憂位居=ウクライイ=ウクライー」と書いていてふと思った。

「本国へ戻れず、最終的にウクライナに達した一団がいたのではのではないか」と。

古代には「国」を「ラ」「マ」「ヤ」「ナ」と発音した人々がいた。

これに当てはめると、「ウクライナ」は「ウクライ国」である。

そして当て字をしてみると、「ウクライ国」は「憂位居国」だ。

さらに「ウクライナ」の英語発音は「ユークレイン」だが、「憂」は「ユウ」の発音を持っているから、これだって「ユークレイン=憂位居の・憂句麗の」と当て字できる。


このウクライナ地方を、4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となる「フン族」が通り抜けた。

この「フン族」は、「新羅」「狗奴国」の同族である「匈奴」の子孫であるとするのが現在の学説だ。

後にフン族を率い、「ゲピデ王国」の王となったアッティラは、ローマ人から「悪魔」「神の鞭」と恐れられ、彼の肖像画には頭にツノが生えたものがある。

これは「ツノガアルヒト=ツルカルナイン」と呼ばれた「アレキサンダー大王」と同じである。

アレキサンダー大王と同じ「イスカンダール=居西干単于」の「単于=ダール」を王号とする「匈奴=フン族」が、ヨーロッパに帰ってきたのだ。

そして「アッティラ」の語源は「戦いと争いの神」と言われる「阿修羅=アッシラ・アシュラ」で、これは「阿日羅=アヒラ・アシラ」と書けば、「居西干」を王号とした同族である「新羅」にも通じる


さらに面白いことに、筆者の住む秋田県には、有名な「なまはげ」で知られている男鹿市があるが、この「なまはげ」にはこんな伝説がある。

「昔、漢の武帝が戦いで頭に角のある鬼を捕えた。武帝は鬼を島流しとし、1年中休みなく使役したが、この鬼が流されたのが男鹿島である。そしてこの鬼に元日の一日だけ休みが与えられたので、大晦日の夜に鬼が山から里に降りてきて、酒を飲んで暴れまわった。これがなまはげの起源である」

漢の武帝(在位:前141年〜前87年)は、匈奴と戦って河南・河西回廊・内モンゴルを奪い、匈奴を北方に退けた皇帝である。

この武帝が戦いで捕えた「鬼」が「匈奴人」だとすれば、「匈奴人=鬼=角がある人=ツルカルナイン」となる。

つまり「なまはげ」は、「匈奴人」で「角がある人=ツルカルナイン」だったのかも知れない。

さらに歴史家ヨルダネスは、フン族について、「フン族は恐怖によって敵を逃げ出させた。なぜなら彼らの浅黒い顔つきは恐ろしく、そして彼らは寧ろ巨大で不細工な塊とも言うべき顔を持っていた」と記している。

そう言えば「なまはげ」の面は能面などとは異なり、通常の人間の顔より3〜4まわりほど大きく作られ、異形で恐ろしい様相が強調されている。

「なまはげ」と相通じる容姿・顔を、フン族は持っていたというのだ。

そして一般的なフン族の習慣は、顔面を広げて敵に恐怖心を与えるために、幼児の頃から子供の鼻を縛り付けて平たくすることであったと言う。

事実、発掘されたフン族の頭蓋骨は、幼児期に頭を儀式的に縛り付けた結果である人工的な頭蓋骨奇形の証拠を示している。

これがフン族の習慣であったとするならば、その先祖である「匈奴」もまた同じ習慣を持っていてもおかしくはない。


歴史とは思わぬところでつながっていて、調べれば調べるほど新たな展開を見せるものなのだ。




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謎の神武東征㉘ 「タカクラジ」は高句麗東川王・憂位居

しかしここで疑問になるのが、「タカクラジ」の名乗りに「高句麗」が入っている事だ。

果たして彼は「高句麗王」だったのだろうか?

「高倉下」という名前は「高い倉の主」の意であるとするのが通説で、『先代旧事本紀』巻5天孫本紀では、物部氏の祖神である饒速日(ニギハヤヒ)の子で尾張連らの祖・天香語山(アメノカゴヤマ)命の割註に、「天降の名・手栗彦(タグリヒコ)命のまたの名がタカクラジである」としている。

なんと、「タカクラジ」は神武天皇の敵である「ニギハヤヒ」の子の「アメノカゴヤマ」と同一人物だったのだ。

この「タカクラジ」の別名の「アメノカゴヤマ」であるが、これは一見して「鹿児島」と似ている発音だとわかるが、これは高句麗第7代王の次大王・遂成が、倭・面土国王の帥升と同一人物で、彼の都は鹿児島県の宮之城にあった事を確認しているから、「天の香語山」とは「天の鹿児島王」との名乗りに通じる。

また「天」を「天=空=クウ=コウ=高」と考えると、これは「高の鹿児島王」で、「高」は「高句麗」の「高」であり、朱蒙以来の高句麗王家の姓であるから、彼は「高句麗王」との結論に達する。

そしてもうひとつの名乗りである「タグリヒコ」は、「タグリ」が「高句麗=コグリ」の訛ったものだと考えると、やはり「高句麗彦」で、当時の「彦」は王や王子を指すから、彼は「高句麗王」か「高句麗王子」となる。

何より「タカクラジ」という名前は「高い倉の主」との意味だから、これは正しくは「高句麗の主」であり、「タカクラジ」が「タカクラギ」の訛ったものとすると、これは大隅語で「高句麗王」を意味する。

「タカクラジ」の異なる三つの名乗りは、どれも「高句麗王」となって一致するのだ。

そして卑弥呼の頃の高句麗王は11代目の東川王・憂位居(ユウイキョ・在位:227年〜248年)だが、高句麗王の姓は「高」なのだから、彼のフルネームは「高憂位居」で、これは「コウウクライイ」と読める。

これを「タカクラジ」と比較してみると、「コウウクライイ」は「ウウ」を「ウー」、「イイ」を「イー」発音すれば「コウークライー」で、南九州語は言葉を短く発音するから、「コウクライ」。

さらに「コウ=高」「クラ=倉」「イ=似」と当て字すれば、これは「高倉似=タカクライ」で、「似」は「類似(ルイジ)」の様に「ジ」の発音も持っているから「高倉似=タカクラジ=高倉下」なのだ。

つまり「タカクラジ」は「高句麗東川王・憂位居」だった可能性が高い。


これを裏付ける様に、『三国志・高句麗伝』の中には以下の記事がある。

「景初二年(238年)、(魏の)太尉・司馬王(=司馬仲達)が軍団を率いて遼東の公孫淵を討ち、高句麗は主簿大加を派遣して、数千人を率いて援軍とした」

「正始三年(242年)、高句麗が西安平県に侵攻したが、その五年(244年)、(魏の)幽州刺吏・母丘倹(かんきゅうけん)に全滅させられた」


つまり高句麗の本国は熊本にあったが、王は主力軍を率いてこの頃までに海を渡り、現在の北鮮・満州にあって魏と国境を接していたのだ。

しかし魏との国境紛争から戦争となり、高句麗軍は壊滅し、その後に「王は逃亡した」との記述がある。

この逃亡した当時の王こそ、東川王・憂位居なのだ。

つまり憂位居は北鮮で魏に敗れた後、熊本の本国に帰ってきていたのではないだろうか。

彼は本国で軍を立て直し、再び魏と決戦に及ぼうとしていたのだろう。

しかし高句麗の宗主国である倭国は逆に魏と友好を結び、卑弥呼はその憎い魏から「親魏倭王」に任命されている。

憂位居はこれを見てまずは卑弥呼を滅ぼし、倭の30国を統合する「邪馬台王」となって軍備を整え、魏に再戦するつもりではなかったのだろうか。

しかし先の魏との戦いで高句麗軍は壊滅してしまっており、単独ではまともに倭国とは戦えない。

そこで同じく倭国に恨みを持つ新羅の赫居世と手を組み、連合して倭国に戦いを起こしたのだ。

そして「赫居世=天照大神」の要請を受け、新羅軍を率いる「瓠公=神武天皇」に宝剣を与えた、すなわち新羅軍の武装を強化したのだ。

となると、天照大神と相談した「武甕槌(タケミカヅチ)」もまた「東川王・憂位居」だったのかも知れない。











続く







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謎の神武東征㉗ 「神武東征」は新羅・高句麗連合軍と卑弥呼の「邪馬台紛争」

建国当初の高句麗が熊本にあった事は、これではっきりした。

そしてこの事実を踏まえ、改めて「神武東征」の記事を見てみると、「高句麗」とソックリな名前を持つ人物が登場していることに気がつく。

「東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は、武甕槌(タケミカヅチ)神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下(タカクラジ)に授け、高倉下はこの剣を神武天皇に献上した(神武東征記)」

この「タカクラジ」は「タカ=高」「クラ=句麗」と当て字できるから、「タカクラジ=高句麗下」で、高句麗の側に居た人物だったのだ。

そして「高句麗」は「熊本」に興った国なのだから、「神武東征記」の言う「熊野の住民・タカクラジ」とは、正しくは「熊襲(熊本)の住民・高句麗下」である。

つまりこれは、「熊本の高句麗が神武天皇に味方した記録」だったのだ。


ここで思い出していただきたいのが、「神武天皇」の息子である「神八井耳」は、「狗右制卑狗」と記録された「狗奴国王」だったと言う事実である。

『三国志・魏志倭人伝』によると、卑弥呼が魏に使いして狗奴国との紛争を報告したのが「正始八年」で、これは西暦247年の事だ。

つまり「神武東征」は3世紀中頃の事件だったのである。

そして卑弥呼の夫であった「仲哀天皇=ソナカヒコ」は、最後まで熊襲征伐を優先しようとし、結果として老ソナカ王に謀反を疑われて殺されてしまっている。

この「熊襲」が「高句麗」であったことも検証済みだから、高句麗と倭国は敵対関係にあったと見てよい。

これは同じく倭国と敵対関係にある新羅と利害が共通しているのだから、高句麗が新羅に味方してもおかしくはないと言える。

しかし「神功皇后記」に、「新羅は戦わずして降伏し、高句麗・百済も朝貢を誓った」との記事があるように、神功皇后のモデルの1人である卑弥呼が新羅を征伐しに九州に上陸した際、新羅も高句麗も、倭国の属国となっていたのだ。

そして新羅と高句麗が手を結び、宗主国である倭国に対して起した戦いが、『三国志・魏志倭人伝』に記録された「邪馬台紛争」であり、我が国の歴史に記録された「神武東征」だったのだ!












続く

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謎の神武東征㉖ 「玉名」は「多婆那(タバナ)」だったか?

陜父の「多婆羅国」が玉名を含んでいることは分かった。

そしてさらに調べていくうちに、『三国史記』に以下の記述を見つけた。

「脱解尼師今立つ。 (中略) 脱解、本来は多婆那国の生まれ。その国は倭国の東北一千里に在る」

この記事の中の「多婆那(タバナ)」は「多婆羅(タバラ)」とは一文字違いであるから、学説では両国を同一視する見解がある。

また陜父の領土である「玉名(タマナ)」にも近い発音を持っている事も分かる。

しかしこの記事、実は「新羅」の記録で、「脱解尼師今」とは新羅三王族の一つ、「昔氏」の王なのだ。

となると私たちは既に、「天の昔氏」と呼ばれた新羅王子である「アメノヒボコ」が種子島を征服し、彼の血筋が後に新羅三王族の一つである「昔氏」となった事を知っている。

そして当時の種子島が「多児国=タジマ=但馬国=タジマナ=タチバナ=橘」などと呼ばれていたことも検証済みだ。

だから「昔氏」の王である「脱解尼師今」が生まれた「多婆那(タバナ)」は、間の助詞である「津」が抜けているとすると「多津婆那=タツバナ=立花=橘」で、これは「種子島」だと答えが出る。

またこの「種子島」は「倭国の東北一千里に在る」と言う。

これは先に使った「対馬~松浦間」の距離である「二千餘里」の半分であるから、これをもとに調べると、現在も定期船の航路のある、「種子島の西之表」と「屋久島の宮之浦」を結ぶ距離にほぼ一致する。

そして種子島は正確に、屋久島の東北に位置しているから、やはり「多児国=種子島」を新羅に奪われた後の倭国の最北端は、屋久島だったという事になるのだ。

この「多婆那」を「多婆羅=玉名」に当てはめても、決してこの様に検証に添った正確な答えは導き出せない。

まず記事に従って玉名や熊本を起点とし、南西に「一千里」向かうと、そこは島原半島の先端である。

二世紀頃の倭国はまだ南西諸島にあり、新羅もようやく鹿児島に上陸したばかりであるが、史書の記録を逆算すると朱蒙の即位は紀元前三十七年とされている。

その後二十数年して「陜父の乱」が起こるのだが、それでもまだ紀元前十年台の話であり、まだ倭国も新羅も九州には上陸していないのだから、その両国が熊本や島原に存在するはずがない。

以上の結果から、「多婆那」と「多婆羅」は別の国と言える。












続く

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謎の神武東征㉕ 陜父の「多婆羅国」も熊本

初期高句麗が熊本にあった証拠は実はまだある。

「朱蒙」の友である「陜父(ケフホ)」に関して、『桓檀古記』には以下の興味深い記述があるのだ。

『陝父、南韓に奔走して、馬韓の山中に隠り、将の革と出合う。

浿水(清川江)を下り、海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸に居する。

転じて阿蘇山に移住して多婆羅国の始祖となり、後に任那を併せて連合国として治めた。

そのうちの三国は海にあり、七国は陸に在る。

多婆羅国には、弁辰狗邪国人が先住して狗邪韓国と言い、多婆羅国は多羅韓国ともいう。

忽本より来たりて高句麗と早くから親交を結び、烈帝(広開土王)が制した。

多羅国は安羅国と同隣して同姓である。

旧熊襲城を有す。今、九州の熊本城がこれである』


なんと、高句麗王・朱蒙の友である「陝父」は、阿蘇山に移住して熊本城を領有していたと言う。

さらに朝鮮史を見てみると、朱蒙の子である「瑠璃王の22年」に以下の記述が見つかった。

『(瑠璃王)二十二年 冬十月 (瑠璃)王於て國内に遷都し、尉那巖城を築く。

十二月 王、田(狩り)に于(往)き、山陰に質し、五日返らず。

大輔陜父諫めて曰く、「王新たに都邑を移し、民を安堵せず。宜しく孜を焉し、刑政之是を恤す。而して此れを念わず、田獵に馳騁して而も久しく返らず。若し過ちを改めずして自ら新しく、臣、政荒れて民の散ずるを恐る。先王之業地に墜ちん」

王之を聞くに震怒し、陜父の職を罷く。司官園俾き陜父之に憤りて南韓に去る』


つまり陜父は朱蒙の子である「瑠璃王」が新しく都を造営したにもかかわらず、政治を疎かにして狩猟にばかり興じていたので、「それではいけません。先王(朱蒙)の業績が水の泡となります」と言って諌めたのだ。

ところが「瑠璃王」はそれに激怒し、陜父を罷免したので、憤った陜父は高句麗を去って南韓に行ったのだ。


そして陜父は阿蘇山に移住して熊本城を領有し、「多婆羅(タバラ)国の始祖」となったのだと言う。

ではこの「多婆羅国」とはどこにあったのか。

阿蘇山と熊本城はともに熊本県下なのだから、「多婆羅国」もその近くにあったはずである。

ここで歴史好きな方なら、「熊本・タバラ」と言うキーワードでピンと来ただろう。

そう、熊本市の北には明治10年の「西南戦争」で最大の激戦地となった、「田原坂」が存在する。

これは「タバルザカ」と呼ばれているが、「田原」は標準語で「タハラ・タバラ」と呼ばれるから、「多婆羅=タバラ」と一致する。

そしてその「田原坂」の西には「玉名市」があり、これは「タマナ」と「タバラ」と言う非常に近い発音を持っている。

その隣にあるとされる「安羅国」だが、「多婆羅国」の範囲が玉名から田原坂で、「旧熊襲城を有す」は「熊本市までを含んだ」との意味とすると、熊本市に隣り合って「北に阿蘇山がある」という条件を満たすのは、「安羅国」を「安羅=アラ」と読んだものが訛った上益城郡山都町の「原=ハラ」である。

となると「任那を併せて」「任那」も、「御間城=トカラ列島」や朝鮮の「任那」ではなく、同じく熊本県下の「水俣=ミナマタ」だと考えるべきだ。

つまり陜父が治めた連合国の本拠地は熊本にあったのだ

また「熊本城の旧名は熊襲城」とあるのだから、「熊本=熊素=クマソ=熊襲」で、古来「ヤマトの敵」とされてきた「熊襲=クマソ」とは「熊本」の事だったのだ!

そして「高句麗」は熊本に長く本拠地を置いていたのだから、「朱蒙」をはじめ歴代の王も「熊襲王=クマソ王」と呼ばれ、「クマソ」が短く訛って「コマ」となり、「高国=タカクニ」もまた「コマ」と読めるので、これらはいずれも「高句麗」の別称となったのだ。

さらにその高句麗から逃れ、高句麗の故地である熊本を領有した「陜父」も、間違いなく「熊襲王の一人」と言えるのである。







続く

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謎の神武東征㉔ 初期高句麗は「熊本」にあった

これで神功皇后が攻めた「新羅」が鹿児島県下にあった事はほぼ確実となった。

しかし『神功皇后記』によれば、「高句麗・百済も朝貢を誓った」とあるのだから、両国も鹿児島付近にあったはずである。

朝鮮の正史である『三国史記』を見ると、[高句麗本紀]にその移動の跡がはっきりと記録されていた。

高句麗では王を埋葬した地名を「諡号(死後の贈り名)」として使っているが、その「地名=王名」が移動と時代を証明している。

高句麗王たちの埋葬地名による諡号を見ると、9代「故国川王=コマガワ=クマガワ」・16代「故国原王=コマゲン=クマゲン」・17代「小獣林王=オジュウリン=イジュウイン」・18代「故国壌王=コマジョウ=クマジョウ」などと読める。

これは「クマガワ王=球磨川王(熊本)」「クマゲン王=熊毛の王(鹿児島)」「イジュウイン王=伊集院王(鹿児島)」「クマジョウ王=隈城王(鹿児島)」となり、現在も南九州に存在する地名に一致する。

しかし、「高句麗は現在の北鮮から満州に興った国で、九州とは関係がない」と思われている方も多いだろう。

高句麗という固有名詞の起源は、漢帝国が設置した玄菟郡の高句驪県に由来すると言われ、史料には高句麗王に先立って高句麗侯があらわれるが、史書によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。

以下、高句麗の建国神話を見てみよう。

『朱蒙の名の由来は扶余の言葉で「弓の達人」と言う意味である。

朱蒙は名の如く「弓の達人」であり、将来必ず異心を抱くとして夫余国の人々は排除を望んだが、王は朱蒙を庇い馬の世話を命じる。

しかし、朱蒙が駄馬を良く世話して肥し駿馬には餌を与えず痩せ細らせることで王を駄馬に乗せ自らへ駿馬を賜らせることに成功し、また狩りへ出ると少ない射撃で多くの獣を傷付けたため、夫余国の人々は再び朱蒙の暗殺を企てた。

陰謀を察知した朱蒙の母が逃亡を促すと、朱蒙は烏伊・摩離・陝父(ウイ・マリ・ケフホ)の3人と共に、淹淲水を渡って逃げようとしたが舟がない。

そこで水に向って「私は天帝の子、河伯の外孫である。救けてほしい」と祈ったところ、魚やスッポンが浮び出て来て橋になってくれたので渡って逃げることができた。

その後ある川に出た時、菜っ葉が流れて来たのを見て上流に人が住むことを知り、進んで行くとフルという国についた。

国王「松譲王」に会いに行くと、王は、「海の片隅に都していて海外のかた方に会ったことがなかった。今日、お目にかかれて幸せである。しかし、吾子はどこから来られたか?」と聞く。

朱蒙は答えて、「私は天帝の子である。天命をうけてこの国を治めに来て、すでに都を定めた」と言うと、松譲王は、「私は代々この国の王である。狭い国に二人の国王はいらない。私の家臣になりなさい」と言う。

朱蒙も怒って、「それは失礼な言い方だ。それならどちらが王にふさわしいか、文武の力をくらべてみよう」と言い、力比べをしたが、松壌王がかなわないで降伏して国を譲った。

朱蒙は王となり、その国を「多勿郡」と命名し、松譲を郡主にした。』



この高句麗の建国神話を検証してみると、『日本書紀』神功皇后五年三月の項に、「迂(ウ)礼(レ)斯伐、毛摩利叱智、富(ホ)羅(ラ)母智」の三人が登場する。

この三人を「烏伊・摩離・陜父」と比較すると、「迂礼=ウレ」は沖縄語で発音すると「ウリ」で、「烏伊=ウイ」とはほぼ一致する名を持っている。

「摩離」と「毛摩利=ケマリ」は「毛」が多いが、どちらも「マリ」の名を持っている。

「陜父=ケホ」と「富羅=ホラ」は一見すると別人のようだが、「毛摩利」に本来「富羅」に入るべきはずの「毛」が誤入したと考えると「毛富羅=ケホラ」で、「ケホ」が一致する。

この六つの名前が、本来は三つであったことは間違いない。

「松譲王」は「ショウジョウ王」と読むと何の事か分からないが、「松=マツ」と読めば「政=マツリ」は南九州では「マツィ」であるから「マツリゴトを譲った王」であり、「マツユズリ王=国津譲り王=国の譲り王」に対する当て字ということで一致する。

「淹淲水」は『魏志東夷伝』では「施掩水」などと変っているが、どちらにも「奄」の字があり、「天=アマ」、あるいは「奄美=アマミ」が語源であり得る。

この物語は高句麗の話だから、朝鮮半島あるいはそれ以北の物語りだと現在に至るまで信じられて来たために、それが川の名のように受けとられ、編集者が適当に字を当てたのかもしれない。

「多勿郡」は「タコ」で「高来」と書くと「タキ」とも読めるが、鹿児島県の出水附近には「高城=タキ」の地名が現存する。

また「多勿」を「タコツ」と読めば、領土には編入しても前王を郡主にしたのだから、「託す=タクス」が、ス音のなかった時代には「タクツ→タコツ」となったとも考えられるし、朝鮮語の「タクタ=平らにする」から、「平らげた=平定した」が語源であったかもしれない。


ついでに、この王子「高朱蒙」の名も「高城」の「高」の字をもっていることに注意してほしい。

高句麗は朝鮮語だと思われて来たが、朝鮮語の中にはその真意のわかる近縁語のない孤立したことばである。

ところが、「リ」を朝鮮訛りと考えて日本語に還元して比較してみると、われわれが「鍛冶(カジ)屋もの」と呼ぶべきものを、「コリ(環、締め金具など)」と呼び、「ジ」が「リ」になっている。

さらに朝鮮語では、「未時=ミジ=前もって」が「ミリ」、「里辞=サトジ=方言」が「サトリ」などであるし、比較的古いものにしか見られないが、「水=ミズ」を「ミル」といったり、「産物=サンブツ」を「サアンムル」と言ったりする。

「タ行」「ザ行」が「ラ行」になるクセは現代語にも見られるから、「高句麗」の原音は「高クチ」か「高クジ」であったと考えられる。

それも「高クチ=コークチ」「高クジ=コークジ」ではなく、「タカクチ」「タカクジ」であったと考えられる。

そのわけは本来が「高城=タカギ」「建=タケ」「猛=タケ」という「タカ」「タケ」をモチーフとした名が基になっているらかだが、ではこの「クジ」は何を意味するのであろう?

それは「久爾=クニ」あるいは「玉璽=ギョクジ」と使われる「ジ」の用字音と同じく、「ニ」の転靴したもので、「タカクニ=高国」の朝鮮訛りとなる。

つまり「多勿郡=タカクニ」と同じものだったのである。

『日本書紀』の中には「貴国」と書いて「タカクニ」と読ませたものがあり、これまで、それはすべて日本に対する尊称として扱われて釆たが、本来は「高句麗」が本家であった。

もちろん、どちらも同祖であることは明らかだが、厳密には区別の必要なものなのである。

また「高麗=コウレイ・コウライ」と書いて「コマ」と読む謎も、朱蒙の養父である扶余王「金蛙=コムア」の縮まったものも「コマ」であり、「多勿郡=タカクニ=高国=コマ」であったからだ。

そして地名によってつけられた高句麗王たちの諡号が、[熊毛王][球磨川王][伊集院王][隈(くま)之城王]と並んだあと「球磨」から「熊本県」に広がるが、それは「高麗本(=クマモト)県」と書いてもいいものだったのである。

また高句麗第7代王の「次大王」は「遂成(スイジョウ)」という名をもっているが、この名は『三国志』の前の中国正史『後漢書』の中に出てくる「倭・面土国」の王「帥升(スイショウ)」とごく近い発音の名をもっている。

そして「面土」の発音は「ミヤンヅウ」で、これは鹿児島県の「宮之城=ミヤノジョウ」の実際の発音に一致する。


つまり「朱蒙」の建てた「高句麗」とは「高国=コマ」であり、「高国本=熊本」だったのだ。









続く

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謎の神武東征㉓ 「天照大神・赫居世」と「瓠公・神武天皇」

では「神武天皇」が新羅王であったならば、新羅始祖と言われる「赫居世」と彼は同一人物だったのだろうか?

ここで思い出して欲しいのが、「赫居世」とは「世の中を明るく照らして治める」との意味であるという事だ。

これは一見して「天照大神」を連想させる。

つまり「倭」「新羅」には共通して「天照」という考え方があり、それは「ソナカ仏教」「シンドゥ教」共通の発祥の地であるインドにその源流があったと見るべきだ。

そして新羅は「シンドゥ=神道教徒」なのだから、この「赫居世」こそが現在伊勢神宮に祀られている方の「天照大神」なのだ。

なにより「赫居世」が名乗った称号が「居西干=イセカン」であり、「天照大神」も「伊勢神宮の神=伊勢神=イセカン」で一致しているではないか!

となるとこの「赫居世=天照大神」は「神武東征」の際に、「八咫烏を神武天皇に遣わして教導とした」人物なのだから、神武天皇の協力者ではあったが別人と見るべきである。

また神武天皇の即位は52歳であり、赫居世は13歳で居西干に推戴されているのだから、双方の記録は一致しない。

神武天皇は「赫居世」ではなかったのだ。

では神武天皇は新羅内でどの様な立場にあったのか。

神武天皇の名乗りのひとつに「彦火火出見(ヒコホホデミ)」があるが、この「火火=ホホ」は「朴=ホホ」と同じ発音であり、「赫居世」の姓である「朴」と一致している。

これから考えて神武天皇は、赫居世の一族かもしくは赫居世と同等の権力を持った重臣であった可能性がある。

これを踏まえて朝鮮史を見てみると、新羅建国時に海を渡って来て大輔という役職名の重臣になった倭人がいたとの記事がある。

そして彼は腰に瓠をぶら下げていたことから「瓠公」と称されたと言うのだ。

この「瓠」は、「赫居世が生まれたとされる卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであった」「辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った」とするものと同じであり、このことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする説があると言う。

整理すると、

●「瓠」は辰韓語で「朴」であり、「朴=ホホ=火火」である
●「朴=ホホ=火火」は、「神武天皇(彦火火出見)」と「朴赫居世」に共通する名乗りである
●「瓠公」と「赫居世」は同一視、または同族視されている
●「瓠公」と「神武天皇」は「朴赫居世」の協力者である


となるから、神武天皇は「瓠公」と同一人物であった可能性が高いと言える。

つまり「神武天皇」は「瓠公」として「朴赫居世」と同等の権力を持っていたのだ。










続く

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謎の神武東征㉒ 「神武天皇」が移動したのは新羅の領地

新羅が鹿児島にあった証拠はまだたくさんある。

『魏志倭人伝』のある『三国志』の『東夷(とうい)章』に書かれている当時の朝鮮半島の記事みると、そこには「新羅」などという国はどこにも記されていない。

私たちには、もう「神功皇后紀」の記事が、3世紀当時の歴史を書いたものだと、はっきり分かっている。

だから仮に皇后が本当に「朝鮮半島」を「侵略」したのなら、その相手の国名は『魏志倭人伝』にある国名と同じでなければならない。

ところが『記紀』には、『魏志倭人伝』に全く載っていない「新羅」という国名が使ってある。

これはこの「新羅征伐」が、朝鮮半島以外の土地での事件だからである。

それでもまだ納得いかないかたのために、少しだけ証拠を追加しておこう。
 
鹿児島では「ヒラキキ」は「ヒラキッ」で「ヒラ王津」という文字に相当する。
 
これは「ヒラの王の港」と考えればいいが、では「ヒラ」とはなにか。
 
それは「ラ」が、サカ語の「マ」と同じく、インド語の「国・地方」などを意味する言葉だったから「ヒ国(=ヒラ)」。

これは「日の国」か「火の国」と書くことができるから、「japamala ジャパンアーラー」に当て字した、「日本」という国名の古い形だったのだ。

つまり、「開聞=ヒラキッ=ヒラ王の津」という意味であり、「ヒラキ=日羅王=新羅王」なのである。。

新羅ももともと沖縄に発生した国で、トカラ列島の「平島」を経て島伝いに北上して大隈半島に上陸し、通過した後に「知覧(チラン)」・「始羅郡(シラグン)=『続日本紀』」・「姶良郡(アイラグン=アヒラグン)」「日奈具(ヒナグ)」を残して行った。

鹿児島方言は江戸っ子と同じく「<ヒ>と<シ>」が混乱するから、「始羅=シラ」と「姶良=阿ヒラ」はもともと同地名なのである。

その「姶良」はまた「カラ」とも読めるから「姶良郡」は古風に読めば「カラグ二」である。

このことは眼下に姶良郡を見る霧島連峰の最高峰が、「韓国見岳(カラグニミダケ)」と呼ばれることで充分証明されている。

そこからは決して朝鮮半島は見えないのだから、この「韓国=カラグニ」とは「姶良郡=カラグニ」の事で、「姶良郡=カラグニが一望できる」から「姶良郡見岳=カラグニミダケ=韓国見岳」なのである。


と、ここで『神武東征』を思い出して欲しい。

「神武天皇」が「ヤマト」を攻めるために一族を集めて協議したのが「高千穂宮」、すなわち霧島連峰の麓である。

そして「神武天皇」は「種子島」を経て「開聞」に入っているが、「種子島」は「新羅王子・アメノヒボコ」が攻め取った地であり、「開聞」は平島から逃れた新羅が移った場所だ。

つまり「神武天皇」は、「新羅と関連のある地域」を移動していたことになる。

いや、これは厳密に言うと、むしろ「当時の新羅の領地」だったのではないだろうか。

となると「神武天皇」がそれらの地域を訪れたとき、その土地の王や有力者が軍勢を率いて合流したり、宮殿を貸すなどして歓待しているのは、「神武天皇」が彼らの主君であったからだとすれば、彼らは主君を出迎えてその命令に従っただけであり、これは至って当たり前の事だったのだ。









続く

謎の神武東征㉑ 「新羅征伐」は倭国の九州上陸の始まり

では倭国はいつ九州に上陸したのだろうか。

それは卑弥呼をモデルとした『記紀』に於ける、神功皇后の記述が物語っている。

『日本書紀』には神功皇后の新羅征伐の記述が以下のように記されている。

『神功皇后は、夫の仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託に従い、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って出兵し、新羅の国を攻めた。

新羅は戦わずして降服し、朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約した(趣意)』


旧来この記述は「海を渡って新羅を攻めた」とあるので、「朝鮮半島の新羅を攻めた」と考えられてきた。

しかしこの時点では、卑弥呼と仲哀天皇(ソナカヒコ)のいた国はトカラ列島であり、倭国の本国もまだ沖縄にあったのだから、未だ領有していない九州を飛び越えて、いきなり朝鮮半島に遠征したとは考えにくい。

そして先に見たとおり、「平島新羅」は倭国にトカラ列島を奪われているから、西南諸島にはすでに存在しない。

では彼女の攻めた新羅とは、いったいどこの事なのだろうか。

「平島新羅」がトカラ列島を追われ、鹿児島に移っていた事はすでに検証済みだから、その「開聞岳」のある薩摩半島の南端から海を隔てて東南にあるのが、種子島・屋久島地方であり、そこから西南に海を行けば、ソナカヒコと卑弥呼の国であり、「平島新羅」のあったトカラ列島だ。

だから「多児国を攻め滅ぼした新羅」「神功皇后が海を渡って攻めた新羅」とは、この「鹿児島新羅」以外には考えられない。

だがこの時、鹿児島新羅は戦わずに降伏したとあるが、なぜだろう。

これは鹿児島新羅軍に比べて、卑弥呼の率いた軍勢が圧倒的な大軍だったと考えるべきである。

卑弥呼の軍勢が大軍だった理由は、『日本書紀』にある『住吉大神の神託』から読み取れる。

ソナカヒコの生前の「宝の国を授ける」という「神託」は、すでにソナカヒコが死んだ事で反故になっていたはずである。

しかし『日本書紀』によれば、「神功皇后は仲哀天皇の死後、政務を執った」とあるので、ソナカヒコの死後、トカラ列島に戻った卑弥呼は、老ソナカ王(=住吉大神=津見王)」より「意富加羅(=倭・吐喝喇)の王」として認められ、夫・ソナカヒコの後を継いで女王となったと見るべきである。

何より、卑弥呼は仲哀天皇(ソナカヒコ)の元を逃げ出して、那覇の老ソナカ王の元に居たのだから、老ソナカ王の覚えもめでたく、また、人並み外れた能力を買われてもいたのだろう。

そして老ソナカ王は、卑弥呼に再び「神託」、つまり使者を遣わして新羅討伐の号令を下し、卑弥呼の軍を先鋒に据え、大倭津国より大軍の派遣を決めたので、新羅討伐軍は、「倭・吐喝喇、大天(沖縄)、高津国(台湾)」の「大倭津国大連合軍」となって海を覆ったのだ。

まさに「海の王=大倭津国の津見王」と呼ばれるに相応しいだけの大船団を目の当たりにし、鹿児島新羅は戦意を失ったと見るべきだろう。

これは仏教の教えの通り、なるべく血を流さずに敵を大軍で圧倒して戦意を挫くのが、始祖・チャンドラグプタが大軍を率いてセレウコス1世を圧倒し、インダス川流域を守って以来、ソナカ一族の伝統的な戦術・兵法であったからに他ならない。

つまり「神功皇后の新羅征伐」とは、大倭津国連邦による、多児国を攻め滅ぼした新羅に対する報復行動だったのだ。

また、大倭津国が多児国に一大拠点を置いていた理由は、九州に大倭津国の領土を広げて仏教圏を拡大するためだったから、この新羅討伐は、大義名分を掲げて九州に堂々と進出する絶好の機会だったに違いない。

これら『日本書紀』に記された「新羅征伐」にはじまる神功皇后の遠征が、倭国が九州に拡大進出した始まりだったのである。








続く

謎の神武東征⑳ 「邪馬台」を攻めたのは「神武天皇」

これで「新羅」と「匈奴」が元は同族であったことがほぼ確定された。

そして彼らの部族が何らかの事情で2つに分かれたとき、もとは一つの称号であった「居西干単于=イスカンダール」が、「居西干を王とする新羅」と「単于を王とする匈奴」に分かれたのではないかと推測される。

しかし匈奴は自ら文字を持たずに部族の歴史記録を残さなかったため、また遊牧民であり一つ所に定住しなかったから、今もって謎の多い部族である。

だがこの「匈奴」を南中国語である呉音で発音すると「クヌ」となる。

この「クヌ」は、『魏志倭人伝』に「卑弥呼と不和である」とされた「狗奴国(クヌコク)」と同じ発音だ。

となると、「狗奴」も、「匈奴」「新羅」と本来同じであったが分裂した同族ではなかったのか。

『三国志』の『魏志倭人伝』によると、「狗奴国」は男王が治め、その官名は「狗古制卑狗」だと書いてある。

これは沖縄語の発音で「クコヂァィヒク」となるが、陳寿の『三国志』より先に書かれて、陳寿が丸写しした部分のある『魏略』では、「狗右制卑狗」と「古」が「右」になっている。

この『三国志』と『魏略』の「古」と「右」の違いは、「陳寿の写し間違い」だとすれば、正しいのは「狗右制卑狗」である。

これを沖縄語で読むと「クウヂァィヒク」で、「ク」は沖縄語の「コ」だとすると、「コウヂァィヒコ」だ。

実はこの「コウヂァィヒコ」とよく似た名前を持つ皇子が、「神武天皇紀」に登場する「神八井美美命」だ。

この人物は神武天皇の皇子で「カムヤイミミノミコト」と読まれてきたが、「神」は「神戸=コウベ」の様に「コウ」の発音も持つから「神八井美美=コウヤイビビ」。

「神」は「~の」に当たる助詞の「津」が省略されているものとして「津=ツ」をつけて[神津=コウヅ]だとすれば、「神津八井美美=コウヅヤイビビ」で、「狗右制卑狗」を「コウヂァィピク」と発音したものに近くなる。

となると、卑弥呼と敵対した「狗奴国男王」は神武天皇の皇子の「神八井美美」であった事となり、その父である神武天皇が攻めた「ヤマト」は「邪馬台」であった可能性が俄然として高くなってきたのだ!

そして「狗奴国」は「新羅」の同族であるとすれば、卑弥呼がモデルの1人となっている神功皇后が攻めたのがその「新羅」であり、また「邪馬台」は倭人連邦で「仏教」が国教であって、「シンドゥー=神道」を国教としている「新羅」と敵対しているのだから・・・

いままでの検証から、両国が敵対し戦争を始める材料や条件は、十分すぎるほど整っていると言えよう!










続く





テーマ : 歴史&スピリチュアル・ミステリー
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謎の神武東征⑲ 『マラヤ編年記』から読み解く、意外な事実②

「『マラヤ編年記』から読み解く、意外な事実①」では、我が国の皇室と仏教とのかかわりを発見することができた。

今回は同じく『マラヤ編年記』から読み解く『新羅との関係』について説明したい。


これまでの検証で「新羅」は、仏教を信仰する「ソナカ宣布団」とは敵対する「ヒンドゥー教の勢力」であった事が明らかになっている。

そして新羅の王統が「朴」「昔」「金」の3王族であったことも分かった。

しかしこの「3王族」に限って見ると、『マラヤ編年記』の「スリ・トリ・ブァナ」も同じく「3王族」である。

これを詳細に調べてみると、「マレーシア不動産情報」というHP内の「マレーシア~今と昔」というコーナーに以下の記述を見つけた。

『ムラユ神話の世界の基本体系が、この物語に集約されている。

と同時にこの世界が記述するのものは、海洋民族ではなく農耕世界であり、イスラム世界ではなくヒンドゥーの世界を具現している。

更に、その血統はアレキサンダーの末裔だとしている。

アレキサンダーのムラユ(マレー)語音は「イスカンダール」であり、イスカンダールを名乗るサルタン(王)はムラカ王朝などムラユ世界での諸侯に例が多い。

それは神話の域を越えてムラユ世界の常識だったのかも知れない。

ムラユ世界のサルタンは、自らをアレキサンダー大王の血をひく世界の三血統の末裔で、インド王、中国王と並ぶ存在と位置付けていた(以上転載)』


なんと、『マラヤ編年記』の世界観は「ヒンドゥー」であるというのだ。


さらに調べてみると、朝鮮の『三国史記』に以下の記述を見つけた。

『朴赫居世は13歳で王位を表す居西干に就き、国号を徐那伐とした』

この「居西干」だが、「イセカン」「イシカン」と読める。

つまり「イスカンダール」の「イスカン」と非常に似通った発音ではないか。

では残りの「ダール」はどこへ行ったのか。

古代中国の北方に居た匈奴(キョウド)と呼ばれる騎馬民族の王は、代々「単于」と呼ばれた。

しかしこの「単于」は「ゼンウ」と読むより、「タンウ」と読むほうが自然だというのは誰にでも分かる。

そして「新羅」の古代王称である「居西干」と「単于」を合わせれば、「居西干単于(イセカンタンウ)」となり、これを沖縄語の発音に直すと「イシカンタヌウ」であるから、両者は「イスカンダール」「イシカンタヌウ」つまり極めてよく似た名前になるのだ。

しかしここで、「なぜ新羅と匈奴、別々の王名をつなぎ合わせたのか」との疑問があろうかと思うが、それは以下で説明する。


まずは新羅始祖の「朴赫居世」の神話を見てみよう。

「辰韓の六村の長の一人が、蘿井の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。

卵を割ると中から幼児が出てきて人々は驚き、東泉寺に連れて行って体を洗うと、男児の体が光輝き、いずこからか鳥や獣たちが集まってきて舞い踊り、天地は鳴動し、太陽や月は清らかに照らした。

そこで人々は男児に「世の中を明々と照らして治める」という意味の「赫居世(カクキヨセイ)」と名づけた。

赫居世の入っていた卵は瓠(カク=瓢箪)のように大きかったので、新羅の言葉で瓢箪を意味する「朴(パク)」という姓にした。

10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。」



これを踏まえて「匈奴の単于」について見てみると、これまで匈奴の王は「単于」とされてきたが、正式には「撐犁孤塗単于(コウリコトゼンウ)」の略称であり、「撐犁(コウリ)」は後のテュルク語・モンゴル語の「テングリ=天」、「孤塗(コト)」はやはりテュルク語・モンゴル語の「クト=霊威」に相当するという説が有力である。


ここで両者を比較すると、「赫居世の姓である『朴』は瓠(ヒサゴ)の意味」で、これは「瓠=コ」と読める。

これは「撐犁孤塗単于(コウリコトゼンウ)」の「孤=コ」に対応している。

また「撐犁孤塗単于(コウリコトゼンウ)」の「撐犁(コウリ)」は「韓国人=コウリアン=高麗人」の「コウリ」と同じ発音であり、無関係とは思えない。

さらに『三国史記』を見ていくと、赫居世の王妃に関して、「容姿端麗にして人徳を備えていた閼英(アツエイ)を朴赫居世は王妃に迎えた」との記事がある。

一方、単于の妻(王妃)は、代々閼氏(アツシ)と呼ばれていたというのだ!

これはまぎれもなく「閼英」の「閼」であり、『三国史記』には「閼英は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英とを二聖と称した」とされているので、「閼氏」の称号は、この新羅の建国神話に基づいている可能性が高い。

そして何より、「孤塗(コト)」の「コ」は「木」と当て字できるからこれは「コト=木塗」で、「塗」をカタカナの「ト」とした場合、「木・卜」だから・・・

なんと!この2つを合わせると「木+卜=朴」で、朴赫居世の姓と同じではないか!

つまり「撐犁孤塗単于(コウリコトゼンウ)」とは「高麗人の朴(赫居世)単于」との名乗りであり、匈奴の「単于と閼氏」の称号は、新羅の建国の二聖である「赫居世と閼英」そのものだったのだ!








続く

謎の神武東征⑱ 『マラヤ編年記』から読み解く、意外な事実①

これで『マラヤ編年記』の記事が、「ソナカ宣布団」がマレーシアに上陸した時の話であることが分かった。

しかしこの『マラヤ編年記』の記事には、よくよく見るともっとすごい事実が隠されている。


2人のお婆さんが住んでいたのが「パレンバンの都・アンデラス」だが、この「アンデラス」は「天照=アマテラス」ととてもよく似た発音だ。

そして「丘が光り輝く」のだから、これは「アンデラス=天照=太陽」の事であるとすれば非常に分かりやすい。

また、その丘が光り輝いたのが「夜」なのだから、「夜=暗い」とすると「アンデラス=暗照らす」であり、「夜の暗闇を太陽のように照らした」とする記述とぴったり一致する。

我が国の神話の「天照大神」のルーツが、こんな所にもあった事になる。

この「天照大神」に関して鎌倉時代の「日蓮聖人」は、「天照大神と八幡大菩薩とは、教主・釈尊(お釈迦様=釈迦仏)が日本を仏教国にするために生まれ変わったものだ」と言っているのだ。

「天照大神」は言わずと知れた「我が国の皇室の祖神」であり、「八幡大菩薩」は、現在全国の八幡宮に祀られている神で、『記紀』によると仲哀天皇と神功皇后の子で、第15代の応神天皇の事である。

なんとここにも、「仲哀天皇=ソナカヒコ」の名が出てくるではないか。

そして『マラヤ編年記』の記事は、「ソナカ宣布団」がマレーシアに上陸した時の話であることは検証済みなので、「アンデラス=天照らす」も「ソナカ宣布団」によって日本に持ち込まれた可能性が高い。

となると本来の「天照」とは、「黄金に光り輝き、衆生(人々)の諸々の闇を照らす存在」であり、それはすなわち「仏」であったのだ。

では「八幡大菩薩=応神天皇」はどうだろうか。

皇祖15代・応神天皇はその死にあたり、「正しい行いをする百人の国王(天皇)と仏教を守護する神となる」と遺言したという。

応神天皇は「宋書」に登場する「倭の五王」の前の倭王であるが、その遺言と「八幡大菩薩」という神号から見るに、「倭国は仏教国であり神道国家ではなかった」のだとはっきり分かる。

仮に倭国が神道国家であったならば、「仏教守護」などという事は言わないだろうし、「八幡宮」に祭られているのは「八幡大明神」でなくてはおかしい。

だが通説では、八幡大菩薩は元々「八幡神」と呼ばれていたのが、東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京し、「八幡神より大仏建造に協力するとの託宣があった」と伝えたため、朝廷は天応元年(781年)、宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈ったとされている。

しかしその「八幡宮の発祥」については次の伝承があるのだ。

『欽明天皇32年に、奈良県の三輪山に所在する大神神社の宮司の身狭の子供「大神比義」が、3年間断食をして祈った。

すると鍛冶翁が豊前の国の菱形池の辺に3歳の童子の姿となって現れた。

そして竹葉の上に立ち、

「我は、誉田別(ホムタワケ=応神)天皇広幡八幡麻呂の神なり。我をば護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこく・れいけん・いりき・じんつう・だいじざいおう・ぼさつ)と申す」

と名乗った。(宇佐宮託宣集、八幡愚童訓など)』


この記述にある欽明天皇とは第29代天皇であり、聖武天皇の16代前である。

そして欽明天皇の32年は『記紀』の記録を逆算すると西暦571年で、「大仏建造に協力するとの託宣があった」とされる、749年にさかのぼること180年以上前だ。

この伝承をすべて鵜呑みにするかはさておき、大仏造営の180年以上前に、「神」と名乗った応神天皇が自らすでに「菩薩号」を称しているのである。

これは朝廷より「菩薩号」を賜ったとされる以前から、応神天皇は「八幡神」ではなく「八幡大菩薩」だった証拠だ。

その後に八幡大菩薩は「武運の神」「弓矢の神」として、源氏をはじめ全国の武士から崇敬を集めたが、この神を拝む時だけは、『平家物語』の『扇の的』で那須与一が言っているように、「この矢、外させ給うな。南無八幡大菩薩」と、やはり仏式なのである。


また応神天皇の誕生伝説によれば、「天皇が生まれた時にそれを祝福して天から八本の幡(ハタ)が降ってきて産室を蔽った」とあり、この伝説から「応神天皇=八幡様」となったという。

ここで言う「天」とは「チヌ=チン=天」で「大天=ウチヌ=沖縄」の事。

応神天皇の誕生を祝って沖縄の大天から八本の旗が贈られ、その旗で産屋を覆ったとの意味だ。

また幡とは、仏教の場合、梵語の「パタカ」のことを指し、仏・菩薩の威徳を示す荘厳具を言う。

仏を祈る時には、その徳を表す旗を左右に飾るしきたりが古くからあり、阿弥陀如来に参る時も八本の幡を立てるのが決まりであるから、これは応神天皇の時代にすでに仏教が存在したという証拠であり、その仏の徳を表す八本の幡を贈られた応神天皇は、「仏の生まれ変わり」とされたのだ。


この検証の結果、「天照」とは本来「仏」であり、「八幡大菩薩」も「仏の生まれ変わり」とされた「仏教王」であることが分かった。

日蓮聖人の言う、「天照大神と八幡大菩薩とは、教主・釈尊(仏)の生まれ変わり」は、正しい事実を伝えていたのである。







続く





プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

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