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謎の神武東征⑰ 「アレキサンダー大王」と同じ称号を持つソナカ王

「ツヌガアラシト」は、「角がある人」だという事を先に検証したが、これは「ツルカルナイン=二本角の大王=角がある人」と呼ばれたアレキサンダー大王の渾名そのものであり、「ツノガアルヒト」が沖縄語に訛ったのが「都怒我阿羅斯等」と言う当て字なのだ。

ソナカ宣布団を派遣したマガダ国のアショカ王の祖父にあたる、マウリヤ朝マガダ国の初代・チャンドラグプタ王の時代、アレキサンダー大王はインドに侵攻して、インダス川流域を占領していたのだ。

アレキサンダーは全インドを征服するつもりであったのだが、このインド遠征の最中に病に倒れ、総督(サトラップ)を任命してインダス川流域の支配を任せると本国に戻り、紀元前323年に死去した。

やがてアレキサンダーの後継者争いが起こると、総督(サトラップ)達の支配する東方旧領土制圧を目指し、セレウコス朝シリアのセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばしたが、この時チャンドラグプタは大軍を率いてセレウコス1世を圧倒し、セレウコス朝のインダス川流域侵入を阻止した。

チャンドラグプタの大軍に驚いたセレウコス1世は、マウリヤ朝マガダ国と協定を結び、インダス川流域の東部辺境地域をマガダ国に割譲した上、自分の娘をチャンドラグプタの息子・ビンドゥサーラの妃として嫁がせるのと引き換えに、チャンドラグプタから500頭もの戦象を獲得したと言う。

これは地中海地域に本格的に象兵が登場するきっかけとなり、後のイプソスの戦いで彼の勝利に大きな貢献をするものでもあった。

後にマウリヤ朝マガダ国の2代国王となるビンドゥサーラと、妃となったセレウコス1世の娘の間に生まれたのが、ソナカ宣布団を派遣した3代目のアショカ王である。

この両国の平和協定と不戦条約によって、マガダ国には多くのギリシャ系の人々が住みついて混血した。何より、アショカ王の母親はセレウコス1世の娘であり、彼自身がインド人とギリシャ人の混血なのだから、不世出の英雄・アレキサンダー大王の事はよく知っていたはずである。

以上がアショカ王の仏教宣布団が派遣される以前の、インドを取り巻く情勢だった。

だからアショカ王が、アレキサンダー大王の渾名である「ツルカルナイン」を知っていて、東方宣布団の団長であるソナカ王に称号として与えたとしても、何の不思議もないのだ。

さらに、ソナカ一族が「ツルカルナイン」を名乗っていたとする証拠が、ソナカ宣布団が立ち寄ったとされるマレーシアの神話に存在した。

現在のマレーシアにあったマラッカ(ムラカ)王朝への祖先は、バレンバンのスリ・トリ・ブァナという3王族にそのルーツがあるとされるが、日本の『古事記』にあたる史書、『マラヤ(馬来国)編年記』によれば、この3王族の出現について、次のような伝説があると言う。

『バレンバンの都アンデラスという所に、エンボク、マリニという二人のお婆さんが住んでいた。

二人はシグンタン丘に田畑を持っていたが、稲が実ったある晩、丘の頂が光り輝くのを見て、二人は恐れ戦きながらもその晩は眠ってしまった。

夜が明け、二人が丘へ登って見ると、稲は黄金の穂を垂れ、茎は銀に変わっており、三人の美男子がそれぞれ白象にまたがってその頂にいた。

二人のお婆さんは、「どこから来なさった?ここで人間を見かけることはほとんど無いのに」と尋ねると、三人は、「われわれは、アレキサンダー大王の血をひく者だ」と答えたと言う』(趣意)


以上が『マレーシア版・天孫降臨』とも言える神話のあらすじである。

仏教では「黄金」が「仏」の異称としてよく使われており、平泉の金色堂に代表されるように、仏像は本来黄金を以て金色に装飾されているべきものであるし、経典や仏説では仏に対する供養の功徳としてしばしば与えられるのが黄金である。

そしてこれは先に見た「蘇那曷叱知」の「蘇那」が「金の国」を指すとするものとも一致する。

また「白い象」は、東南アジアでは古来神聖視されている動物で、殊に釈迦が生まれる際、その母(摩耶夫人)は白象がお腹の中に入っていった夢を見て妊娠を知ったと言われているから、これも仏教との繋がりが多大である。

何よりスリ・トリ・ブァナの3王族が「アレキサンダーの血筋」を名乗ったと言う事は、ギリシャ人の血を引いて「ツルカルナイン」の称号を受け継いでいると言う意味だから、「ツルカルナイン」の称号を名乗って「仏教」を広めにマレーの地を訪れたのは、「ソナカ仏教宣布団」だったのだ。

事実、中国の東晋時代の高僧・法顕の著書『仏国記』には、彼が西暦399年(安帝隆安3年)長安からインドに赴き、411年インドから海路を経て中国に戻る途中、インドネシアのジャワに漂着し、そこで5ヶ月滞在したすべての経緯が記してある。

それによると当時のマレーシア・インドネシアを治めていたのは「逝利佛室(シュリーウィジャヤ)」と呼ばれた王国であり、ジャワ島は「耶婆堤(ジャバデイ)」と呼ばれていたと言う。

これは見て分かる通り仏教を元とする国名であり、事実、インドネシアには逝利佛室時代の大仏教遺跡が存在する。

また、「耶婆堤」は「邪馬台」と語源を同じくするものであるが、それは後で説明をしたい。

ここまでをまとめると、『ソナカ宣布団は「ツルカルナイン=二本角の大王=角がある人」の称号を名乗る「アレキサンダー大王(ギリシャ人)」の血を引く一族であり、マレーシアに仏教を広め、後にマレーシア・インドネシアに大仏教遺跡を残した「シュリーウィジャヤ王朝」を起した』のだ。


その後ソナカ宣布団は、マレー・インドネシアを仏教国とした後、島伝いに台湾・沖縄へと布教地域を広げて行った。

当然その中には仏教徒となったマレー人も多く含まれていたので、当時の沖縄~南九州には、「目」を「マタ」と発音する多くのマレー語を話す人々がいたのである。

ソナカ宣布団の仏教がどのコースを通って日本にやってきたかということは、沖縄の首府が「首里=シュリ」という地名を残しているので、ここが到着点だと一目瞭然にわかる。

なぜなら、その南西をみるとインドネシアは「シュリー(首里)ウィジャヤ」と呼ばれ、さらにその西はインド最大の仏教国「シュリ(首里)ランカ」であるからである。









続く
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謎の神武東征⑯ 「タジマ」を武力で奪ったアメノヒボコ

しかしここで新たな問題が発生した。

それは、「アメノヒボコが但馬(タジマ)国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚した」とする記述である。

この記述は「ソナカシチ」「ツヌガアラシト(ウシキアリシチ)」「仲哀天皇」「アメノワカヒコ」のいずれにも当てはまる記事が見当たらないし、第一「ヒメゴソ」の出奔騒動のすぐ後に、「ウシキアリシチ(=牛鬼)」は海中に沈められ、「仲哀天皇」と「天の稚彦」は矢で射られて死んでいるのだから、その後生存して「但馬に上陸」したとは考えられない。

だとすればこの部分の記述は、これら4人の記述が混同していない、「純粋なアメノヒボコのものだ」と考えるべきだ。

この当時の舞台は南西諸島なのだから、「タジマ」は現在の兵庫県の日本海側にあった「但馬国」ではなく、「タジマナ=橘」と呼ばれた「種子島」の事である。

では「現地の娘・前津見」とは誰の事なのだろう?

この「前津見」は多遅摩の俣尾(ダヂマのマタオ)の娘であると『記紀』には記してあるが、先に見た通り、「津見」は「海・港を支配する官職」であり、「津見王=ソナカ大倭津王」の「津見」であるから、「前津見」は「ソナカ一族」でしか名乗れない名前ではないのか?

検証してみると、「前津見」の父である「多遅摩の俣尾」は、「多児国のマタ王」と書ける。

この「多児」が「タジ→タニ→タネ」と訛り、「多児」は「児が多い」との意味だから、転じて「種(タネ)」となり、「種之国→種子国(=タネシマ)」と当て字されたのが、現在の種子島(タネガシマ)の由来である。

そして沖縄語と同じく3母音言語で、沖縄後の元となったマレー語では「マタ」は「目」の事だから、彼は「多児国の目王」で、「メ」は沖縄語で「ミ」の発音であり、「目」は「見る」ためのものだから、「多児国の見王」

つまり彼は、「多児国王(=タジマ王)」として多児国の政治を「見る」事を、「大津国(=ウチナ)」の「津見王(=大倭津国王)」より任されていたのだ。

しかしただ単に地方の統治を任すのであれば、肩書は日本風に言えば「知事」、中国風では「太守」といった程度で十分である。

だが彼は実際に「王」として統治を任されているのだから、彼が「ソナカ一族」の有力者であり、当時の種子島が「大倭津国」にとって重要な拠点であった事がうかがえる。

これは種子島の地理的条件を考えればすぐに分かる問題だ。

当時の大倭津国(=ウワツクニ)の勢力範囲は、九州に上陸するかしないかといった状況である。

そして種子島の北には、その九州の南端・大隅半島が目と鼻の先だ。

要するに種子島は、九州に進出するための前線基地の最たるものだったのである。

そして何より「~の=津」であるから、「多児国の見王」は「多児国津見王(タジマツミオウ)」と書く事ができる。

これは「大倭津国の津見王=老ソナカ王」が、一族の有力者であり、重要拠点の王である「多児国王」に「多児国の津見=種子島の港と海運の支配権」を、特別に与えていた事を意味する称号だ。

さらに先に見た奄美大島の「住用」も「スミヨー=津見王」なのだから、大倭津国には「津見王」の称号を持つ「方面総監・方面軍司令官」が数人いて、各方面の政治・軍事・布教を司っていたのだろう。

これは「アレキサンダー大王」が各地方の総監として設置した「サトラップ」と同じものであり、これを統括したのが「ソナカ大倭津王」で、「邪馬王」なのだから、それが「大倭津の邪馬の津見王」を意味し、住吉大神と同じく海の神である「大邪馬津見=大山積」であり、「倭の津見」が訛った「ワナツミ=ワダツミ」と呼ばれたのだ。


さらにペルシャ語で「タージ」は「王冠」を意味する言葉である。

ソナカ一族の主君である、インドのマウリヤ朝マガダ国のアショカ王の母親は、セレウコス1世の娘である事は述べたが、このセレウコス朝シリアが領有していたのがペルシャであるから、当然ソナカ一族の中でもペルシャ語が少なからず使われていたはずである。

なので「多児国」の元々の語源は「タージ国」であり、「王冠国」であって、その王たる「多児王」は、特に王冠を与えられ、強大な権限を有していたと考えられ、となるとその娘が「津見」を名乗っていたとしても、ごく自然な事となる。

また、「スミヨー」であるが、「ヨー」を「ジョー」と発音すれば「嬢」「女王」の事である。

「前津見」は多児国王の娘であって女王ではないから、「多児国津見王の娘」を意味する「津見嬢(津見王のお嬢さん)」と呼ばれていたのだ。

事実、種子島では現在でも、女性に対する敬称として、「○○さん」と呼ばずに「○○ジョー」と呼ぶ風習が残っている。


そして「アメノヒボコが但馬国(多児国国=タジマ・ナ)に上陸し」とは、その種子島が新羅によって侵攻されたと見るべきだ。

新羅は少し前にトカラ列島を倭国に奪われたのだが、その一党は海を北上して、新天地たる九州最南端のひとつ、薩摩半島に上陸していた。

この薩摩半島には「謎の神武東征①」でお話した、「安芸(アキ)の挨宮」が置かれた「開聞(カイモン)地区」があるが、この「開聞」は「ヒラキキ」とも読める。

これを大隅語で発音すると「シラギッ」となるが、これは「新羅=シラギ」と同じ発音である。

また、新羅の始祖は「赫居世(かくきょせい)」とされているが、これは「カゴセ」とも読める。

そして「赫居世国」と書けば、これは「カゴセマ」となり、沖縄語では「セ」は「シ」になるから、「カゴシマ=鹿児島」の発音と同じになるのだ。

さらに先に見た「知林ガ島=鶏林」も、朝鮮の『三国史記』には「新羅の古代名称だ」と記されているのだ。

これはトカラ列島を追われた「平島新羅」が、鹿児島県の薩摩半島の南端に位置する開聞岳付近に移った証拠であ
る。


さらに、新羅の王族である「昔(ジャク)氏」は、「倭の但馬(タジマ)地域から新羅に渡り王となった」とされている。

新羅の王統は、始祖・赫居世の系統である「朴氏」、但馬より新羅に渡ったとされる「昔氏」、そして「金氏」の3王族とされているが、「多児国(=タジマ)」を攻め取ったのは「新羅王子・アメノヒボコ」なのだから、これは「アメノヒボコ」が「昔氏」の祖で、タジマ制圧後に新羅に戻り、後に王位に就いた事を示しているのではないか。

そしてこの「昔(ジャク)氏の祖」である「アメノヒボコ」を「天の昔氏(アメノジャクシ)」と呼ぶ人がいて、それが「天昔子」と当て字されて「テンジャクコ」と読まれ、「アメノワカヒコ=天若彦=テンジャクヒコ」と混同されてしまった結果が、敵対しているはずの「アメノヒボコ」と「ソナカシチ」「ツヌガアラシト」に、同様の記述が見られる事になった原因なのだ。

また「アメノワカヒコ」を「天若=アマノジャク」とする説があるが、「天昔」も「アマノジャク」と読めるし、「都努我」と「アメノヒボコ=天日矛」の「天日」も、ともに「チンカ」と読める。

以上から、「アメノワカヒコ」らと「アメノヒボコ」が同一視されてしまったと考えるべきである。


こうしてアメノヒボコが種子島に侵攻し、多児国は敗れ、その戦利品として、「津見嬢」は無理やりアメノヒボコの妃にさせられてしまう。

これは、かつてトカラ列島を倭国に奪われた報復とも見て取れる。

これが「以前は津見を名乗っていた=前は多児国津見嬢だった」という意味の「前津見」なのである。

こうして見ると「新羅王子・アメノヒボコ」は、武力で多児国(タジマ)に侵攻してこれを占領し、多児国王の娘を奪って妃にした事実が鮮明に浮かびあがり、この多児国が占領され、多児国津見王が討たれたことにより、その後の神功皇后による「新羅征伐」が行われた理由もはっきりするのだ。











続く

謎の神武東征⑮ 「ツヌガアラシト=仲哀天皇」を捕えたのは「平島新羅」

ここで「ツヌガアラシト=ソナカヒコ」を捕えた「アメノヒボコ」の国である「新羅」は、どこにあったのかと言う疑問が浮かんでくる。

この話の舞台は「トカラ列島」なのだから、当時の「新羅」もこの付近にあったはずだ。


これを解くカギが「意富加羅」であるのだが、この国は古来より「オホカラ」と読まれてきた。

「オホ」は今の私達が発音すると「オー」となるから、これは「オーカラ」である。

この「オー」と同じ発音を持っているのが「倭」なのだ。

「倭」の南中国語での発音は「ゥオー」で、これも私達が発音すれば「オー」となる。

だから「意富加羅国」を「イトカラコク」と読めば「倭吐喝喇国(=ワのトカラ国)」であり、「オーカラコク」と読めば「倭加羅国(=ワのカラ国)」なのだ。

そして「意富加羅」を「倭吐喝喇」「倭加羅」どちらで読むかは別としても、これは元々「吐喝喇」「加羅」と呼ばれた国が倭国の支配下に入った後に、「倭吐喝喇」「倭加羅」と呼ばれるようになったと見るべきだから、本来ここにあったのは「吐喝喇国」「加羅国」なのだ。

ここで「加羅国」を「カラグニ」と読めば「韓国」で朝鮮半島の韓国と同じとなり、「韓=カラ」は「日=カ」「羅=ラ」とも書けるから「カラグニ=日羅国」で、「日羅国」は「ヒラグニ」と読め、「ヒラ」は「シラ」に発音変換できるから、「シラ国」となり、「シのラ国=シぬラ国=シんラ国」だから、「新羅国」となるのだ。

さらに「日羅之国=ヒラシマ」と書けば、トカラ列島の中央部に位置する「平島(タイラジマ)」を「ヒラシマ」と読んだのと同じ発音になる

平島(たいらじま)は、面積2.08Km²、周囲7.23Kmで、現在の人口は79人、世帯数は37世帯ほどの小さな島だから、当時の「国」が現在の市町村単位であったとしても、この島ひとつだけではとても国とは呼べたものではない。

とするとここは「平島新羅」の政府機関が置かれた島で、「平島新羅」はこの島を中心にトカラ列島を治めていたのではないかと思われる。

つまり「平島新羅」こそ、元々「トカラ列島」支配していた国なのだ。


そして、この「平島新羅」がトカラ列島で発展させたのが、古神道のひとつである「トカラ神道」と呼ばれるものだった。

何故なら、「カラグニ」がどんな意味、どんな語源をもった、何語なのか?と調べてみると、それはヒンドゥー教のシバ神の別名の一つ「 kalagni カーラーグニ 」とぴったり合うからである。

「カーラグニ」は長く引っ張るが、南九州語は発音を短かくする特徴があるから、それが「カラグニ」になるのは自然なことなのだ。

これも偶然だと思う人もあると思うが、これには偶然でない証拠が多数セットになって揃っている。

シバ派は金剛子(こんごうし)という玉を連ねた数珠をトーテム装身具として身につけるが、この数珠を「 japamala ジャパンアーラー 」という。

現在、日本の意味をもつ「ジャパン」の語源がこんなところにちゃんとある。

日本という国号は、この「 ja 」に「日」を、「 pam 」に「本」を当て字したものだったのだ。

この「金剛子」は木の実なので表面に隆起があるが、それを「 mukha ムカ=面」と呼ぶ。

日向(ヒムカ)の「向」もまた、このムカである。

だとすれば「アメノヒボコ」が、牛を殺して食べようとした罪で「ツヌガアラシト」を投獄しようとした理由も、「牛がカラグニ(=シバ神)の化身」と言われているからで、「牛を殺して食べる」事が「シバ神」を否定し、冒涜する行為であったからだとすれば説明がつく。

この時期は「祭政一致」「政教一体」の時代なのだから、その国の宗教を否定し冒涜する事は、その国自体を否定し冒涜するのと同義なのである。

そして何より、沖縄語で「ヒ」は「シ」の発音となり、「ヒラ=シラ」となるから、「ヒンドゥー」もまた「シンドゥー=シントゥ=神道」となるのだ。

先に見た「宝島」の観光パンフレットによれば、その「トカラ神道」は、やがて「観世音菩薩」に取って変わられたとあるから、これは明らかに、「平島新羅」の「トカラシンドゥー」が、後から来た「ソナカ一族(倭国)」の「アショカ仏教」に取って変わられた証拠である。

こうして見ると「ソナカ」と「新羅」両者の対立は、「宗教・信仰の違いによる対立」だったのだ。


つまり、「ツヌガアラシト=ソナカヒコ」は「トカラ列島」の「平島新羅」を仏教化するために派遣されたのだが、遭難してトカラ列島に漂着し、「アメノヒボコ」に捕えられたのだ。

「アメノヒボコ」は「ソナカヒコ」を、「シバの神を否定する宗派の者」として投獄するつもりであったが、「ソナカヒコ」が宝物を差し出したので釈放した。

しかし「ソナカヒコ」は島々の長を教化し、「トカラ神道」に変わって「アショカ仏教」を広めてトカラ列島を仏教国とし、ついに「平島新羅」を追いだして「 倭吐喝喇王」に即位したのだ。











続く

謎の神武東征⑭ 「ソナカヒコ」のもう一つの別名は「新羅王子・天の日矛」?

ソナカヒコは別名を幾つももっていて、どれが本名だかさっぱり分からない人物だが、『古事記』をみると、まだもう一つ別名をもっていたことが分かる。

その名は、新羅王子の「アメノヒボコ(天の日矛)」で、『応神天皇記』の中にはこのような物語がある。

『昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。

すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。

その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を谷間の田んぼに運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。

ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。

男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。

ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になり、ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。

しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。

ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。

この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。

しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚した(趣意)』


話の内容は、ここでもずいぶん違っているが、「牛に荷物を積んで田んぼに行った」「牛を殺して食べようとした」「玉(石)が少女になった」「逃げた少女を追って日本に来た」などの内容が一致している。

また「陰部に日の光が当たって」は「シタテルヒメ」の「下照(陰部を太陽が照らす)」と同じである。

何より娘は「比売語曽」の当て字が変わった、「難波の津の比売碁曾神社に逃げた」とはっきり記されているのだ。

そしてその「ヒメゴソ」を追いかけた人物は、「ツヌガアラシト=ソナカヒコ=仲哀天皇」と同一人物である。

さらにこの話には、「妻の名はアカルヒメだ」と詳しい記述があるし、「ヒボコが奢り高ぶった=奢り高ぶって住吉大神を非難した」ことで、結果「住吉明大神の怒りに触れ」、「難波の海峡を支配する神(海の王=津見王=住吉大神)が遮って難波の津(那覇の港)の妻の元に行けなかった」など、これまでの検証を裏付ける記述がされているのは興味深い。

ヒボコが後添えとした「前津見」の「津見」も「津見王」の「津見」である。


しかしここで注意していただきたいのは、この「アメノヒボコは新羅王子だ」ということである。

少し前に戻って「ソナカシチ」「ツヌガアラシト」の記述を読み返してもらうと分かるが、「ソナカシチ」「ツヌガアラシト」は、ともに「倭国からの贈り物を新羅に奪われ、それを恨みに思っている人物」なのである。

敵対し合っている者同士が同一人物であるはずはないから、これは本来、「ソナカシチ」「ツヌガアラシト」と別人であるはずの「アメノヒボコ」の記述に、「ソナカシチ」「ツヌガアラシト」の記述が混同されてしまって、書き換えられているのではないかとの疑問が浮上する。

これは検証してみる必要がある。

まず、「ツヌガアラシト」の記述では、牛に物を積んで田んぼに向かっていたのは、「ツヌガアラシト」本人である。

一方の「アメノヒボコ」の記述だと、牛に物を積んで田んぼに向かう途中の男を捕えたのが「アメノヒボコ」だ。

これは「アメノヒボコ」が「ツヌガアラシト」を捕えたと見る事ができる。

「ツヌガアラシト」は村長らに牛を食べられて失ったが、「アメノヒボコ」は男が牛を食べるつもりだとして、投獄しようとしている。

片方は牛を食べられたが示談で済ませているのに対し、片方は牛を食べようとしていると疑われただけで重罪人扱いなのだ。

そして男が捕えられた際、新羅王子・アメノヒボコに差し出したのが「赤い玉」で、「ツヌガアラシト」が新羅兵に奪われたのが「赤絹」なのだから、どちらも「赤い宝」で一致する。

以上を整理すると、「ツヌガアラシトを捕えたアメノヒボコは、平和的に話し合いで問題を解決しようとするツヌガアラシトを脅し、人質として投獄しようとした。困ったツヌガアラシトは、父・老ソナカ王より下賜された赤い宝をアメノヒボコに差し出し、何とか釈放してもらった」と読み解ける。

つまりこの記事は、「ツヌガアラシト=仲哀天皇」のトカラ列島漂着を、新羅の「アメノヒボコ」側から見た記事だと言える。

その後の「ヒボコがその玉を持ち帰って・・・」からが、「ツヌガアラシト」の記述が「アメノヒボコ」の記述に混同してしまっている部分である事は、「明らかになった仲哀天皇の生涯」で徹底検証されており、疑う余地はない。










続く

謎の神武東征⑬ 明らかになった仲哀天皇の生涯

ではここで、今まで見てきた「ツヌガアラシト」「ソナカシチ」「仲哀天皇」「アメノワカヒコ」「牛窓の伝承」などの伝説や記述を、時系列で項目ごとに整理してみよう。



●「ツノガアルヒトが田んぼを耕しに行く」 「タカミムスビがアメノワカヒコを葦原中津国に派遣する」

老ソナカ王の命を受けたソナカヒコ(=ソナカ王子)は、新領地の開拓と仏教布教のため、沖縄(ウチナ=大倭津国)を出航する。


●「ツノガアルヒトが牛(=御主)を失う」

ソナカヒコは老ソナカ王(=住吉大神=津見王)の息子で皇太子だったが、ソナカヒコが布教中に遭難して死んだと誤って本国に伝えられたため、別の王子が皇太子に立ち、ソナカヒコはその地位を失った。


●「ツノガアルヒトが村の神をもらう」

しかし実際はソナカヒコは生きており、遭難して辿り着いた村の宗教を取り替えて仏教国とし、その地を意富加羅と名付けて君臨しする。


●「村の神(白い石)が少女に変わる」 「アメノワカヒコ、シタテルヒメを妻とする」

やがてソナカヒコは「村の女神」として崇められていた、珠のように白い肌をした少女と結婚するが、この少女が比売語曽、すなわち卑弥呼尊(ヒメコソン=卑弥呼のミコト)であり、後に神功皇后のモデルの1人となった。

またトカラ列島には、宝島の「女神岳」や悪石島の「女神山岬」、諏訪之瀬島の「根上岳」、中之島の「ネガミ岳」などが存在し、「村の女神をもらう」とは、これらの島々を領土に加えたとの意味も含む。


●「神功皇后の神懸かりと住吉大神の神託」 「タカミムスビ、雉の鳴女を使いさせる」

その卑弥呼の所に、ソナカヒコの生存を知った老ソナカ王より、「ソナカヒコに王位を譲り、意富加羅を含む大倭津国の全領地を与えるから、本国(ウチナ=沖縄)に戻るように」と告げる使者が来る。


●「仲哀天皇が住吉大神を非難する」 「アメノワカヒコ、雉の鳴女を射殺す」

しかしこの時ソナカヒコは、熊襲討伐に出陣する直前であり、またこの本国召還が、自分の生存を快く思わない今の皇太子が、邪魔な存在である自分を殺そうとする策略ではないかとの疑心暗鬼に陥り、使者を罵って殺し、熊襲討伐に出陣してしまう。


●「仲哀天皇、住吉大神の怒りに触れる」 「アメノワカヒコ、タカミムスビに邪心を疑われる」

この事が、「ソナカヒコが謀叛した」として、老ソナカ王の逆鱗に触れる。


●「比売語曽の出奔」 「神功皇后の出航」

老ソナカ王の報復を恐れた卑弥呼は、ソナカヒコが熊襲遠征中で留守の隙に、船で意富加羅を脱出する。


●「比売語曽を追うツノガアルヒト」 「神功皇后の船を襲う牛鬼」

しかし難波(=那覇)に着いた所を追って来たソナカヒコの大船団に追いつかれ、ソナカヒコは卑弥呼の船を襲おうとする。


●「牛鬼を海に沈めた老翁(住吉大神の化身)」 「仲哀天皇の急死」 「アメノワカヒコの死」

だがこの時、老ソナカ王の手の者(化身)がソナカヒコを海に突き落とし(『天書紀』では矢で射て)、ソナカヒコは死んでしまった。



以上から、これまで実在性の薄い「欠史天皇」と言われてきた「仲哀天皇=ソナカヒコ」の生涯がはっきりと浮かび上がった。


また、比売語曽が「難波(ナニワ)に着いて比売語曽社の神様になり、また移動して・・・」の「難波(ナニワ)」は、先に見たとおり「ナニワ=ナヌハ=那覇」だから、卑弥呼は沖縄の老ソナカ王の下に逃げた事になる。

これが「牛鬼=ウシキアリシチ=仲哀天皇」が「神功皇后=卑弥呼」の船を襲おうとし、「住吉大神=老ソナカ王」に謀反人として葬られた一連の事件の顛末であり、「牛窓の伝承」はこの事を伝えていたのだ。

また難波の次に移動したとされる「豊国」の「豊」は、西南諸島を意味する「ホ」であるから、古来言われてきた「豊の国(豊前・豊後)」ではなく、ソナカヒコの死後、卑弥呼はトカラ列島に戻っていた事が記されているのだ。









続く

謎の神武東征⑫ 「住吉大神」は仲哀天皇の父、「大倭津の老ソナカ王」

これで邪馬台国以前の倭国の領土が台湾から沖縄・トカラ列島にまたがっている事は分かったが、では、神功皇后に神託して仲哀天皇に祟りをなした「住吉大神」とはいったい誰なのだろう。

住吉大神は、ソナカヒコに「国を与える」と言っているのだから、少なくともソナカヒコより上位にいた人物である事は確かだ。

そしてソナカヒコは仲哀天皇なのだから、「天皇よりも上位にいる人物」とは「天皇の両親や兄、祖父母」くらいなものである。

事実「住吉大神」が与えると言った国の範囲は、当時の倭国の全領土なのだから、「住吉大神」は「ソナカ一族の王でソナカヒコの父親」であった可能性が高い。


『記紀』では仲哀天皇の父親を、有名な「日本武尊(ヤマトタケル)」であるとしているが、「仲哀天皇が52歳で死んだ」とする『記紀』の記録を逆算すると、仲哀天皇は父である日本武尊の死後36年目に生まれたこととなり、これではあまりにもあり得ない話になる。

よって「仲哀天皇=ソナカヒコ」と「日本武尊=ヤマトタケル」には、少なくとも直接の血縁はなかったとすべきであり、「ソナカヒコの実の父親は別に存在する」と考えて検証するのが合理的だ。


そもそも「住吉大神」とは、住吉社に祀られている「底筒男命(そこつつのおのみこと)」「中筒男命(なかつつのおのみこと)」「表筒男命(うわつつのおのみこと)」の三神を総称したものである。

「底筒」「中筒」「表筒」は、それぞれ「底の海(=海底)」「中の海(=海中)」「表(表面)の海(=海面)」を意味しているから、この「筒」は「~の海」という意味で、「底ツ海=底津津」「中ツ海=中津津」「表ツ海=表津津」と書かれたのが当て字されたものだと分かる。

そして「男命(オノミコト)」なのだから、この三神は間違いなく「男神」と言える。

ここで注目すべきは三神の「名乗り」だ。

それぞれ「○筒男命」と名乗っているが、「底」「中」「表」だけが違う。

そして「住吉大神」はこの三神が一体(三位一体)となっているので、これは元は一人の名乗りが分裂したものと見るべきである。

この「底」「中」「表」は、「ソコ」「ナカ」「ウワツ」と読むのだから、「ソコ」と「ナカ」で「ソコナカ」で、沖縄では「コ」は「ク」となるから、「ソクナカ(足仲)=ソナカ」となり、「ウワツ」は「大倭津」と当て字できるから・・・

これを合わせると「ソナカ大倭津」となり、これは当時の「ソナカ一族の王」しか持ち得ない名乗りとなるではないか!

さらに「男命」を「オーノミコト=王のミコト」と発音すれば、「ソナカ大倭津王のミコト」となるから、これはまぎれもなく「ソナカ一族の王」の事である。

そして「仲哀天皇=ソナカヒコ」と「住吉大神=ソナカ大倭津王」は、同じ「ソナカ」でも「殺される側」と「殺した側」で別人なのだから、住吉大神はソナカヒコの父親である可能性が俄然高くなったのだ!


最奥深く見ると、住吉大神の化身である「老翁」は「ロウオウ=老王」で、「年老いた王=老ソナカ王」を指していると見るべきである。

仲哀天皇は52歳で死んだとされているのだから、その父親となると、当時がいかに早婚であったとしても70歳近くになり、当時の平均寿命が40歳前後と考えると、これは驚異的な高齢である。

そして仲哀天皇に「王位と領地を譲る」と言っているのだから、彼は老いてなお「大倭津国(ウワツクニ)の王」の位にある事となり、その彼を「老王」と呼んだ人がいたとしてもおかしくはない。


さらに奄美大島の地名を調べると「住用村(=スミヨーそん)」という村がある。

「村」の代わりに「之国=シマ」をつけると「住用之国=スミヨーシ国」になるので住吉はこれに対する当て字だと分かる。

では「スミヨー」は何を意味するのか?

古代日本語には<ス>と<ツ>の区別がなかったことは、先に見た「タカズナ=タカヅナ」の例でお分かりかと思うが、これを「スミ」にあてはめてみると、「ツミ」になる。

『記・紀』に出てくる「津見」「積」「祇」という字の事だ。

「ワタツミ=綿津見・海津見の神」「オオヤマツミ=大山積・大山祇の神」などと書かれていて、日本神話の神名、ことに海神の首長クラスに付けられているので、海の王を意味する敬称だとされている。

そうだとすれば「津見」は文字どおり、「津=港・海」を「見る=監視する。支配する」という意味の官名だということになり、「ヨー」も、これを「オー」と発音すれば「王」の事で、「スミヨー」は「ツミオー=津見王=海・港を支配する王」という名になる。

これまでの検証で当時の倭国は、沖縄(ウチヌ)から台湾(高砂・小琉球)・トカラ列島(意富加羅=倭・吐喝喇)を含む西南諸島にまたがる海洋国家だった事が分かっているから、その王が港と海運を支配する「津見王」と呼ばれたのは想像に難くない。

これは、「住吉大神」が古来より「海の守護神」「航海の神」として、漁業や船舶関係者に崇拝されている事実にも完全に一致する。

そして「住吉大神」は「浪速(ナミハヤ)の神」なのだから、「浪」を「ロウ」と読み、「速」をインド・パーリー語で「速い」を意味する「ジャバ」と読めば、「ロウジャバ=老邪馬」、つまり「老邪馬王」の意味だ。

また『謎の神武東征③』で見たように、「浪速(ナミハヤ)」を「ナニワ」だと読めば、「ナニワ=ナヌハ=那の覇=那覇」だから、彼はやはり沖縄の王なのだ。

だからここで言う「邪馬」は「邪馬台国」の事ではなく、「邪馬=ザマ」と読めばこれは現在の沖縄の「座間見」の事で、「座間の見=座間津見=邪馬津見」となって、「大倭津国=ウワツクニ」が当時沖縄にあった事を雄弁に物語っているのだ。









続く

謎の神武東征⑪ 「高砂」から読み取る当時の倭国の領土

ところで岡山県の牛窓にはこんな神功皇后伝説があるという。

羽曳野市誉田(こんだ)八幡宮所蔵の【神功皇后縁起絵巻】によると、

『神宮皇后が備後の泊まりに着いた時、長十丈(30㍍)ほどの大きな牛(牛鬼)が沖のほうより出現し、皇后の乗った船を壊そうとした。

その時に老翁(住吉大神の化身)が牛の二つの角をつかんで海中へ投げ入れた。

この牛は海中に没し、やがて島となって現在に至る。

よってこの場所を「牛まど」と呼んで、文字には「牛(転)まろばし」と書いた(趣意)』
とある。

「牛鬼」は「ウシキ」と読めるから、「ウシキアリシチ」の「ウシキ」に通じ、神功皇后の夫であった「仲哀天皇=ソナカヒコ=ツノガアルヒト」の別名を指している。

そして「仲哀天皇8年」の記事と同じく、「牛鬼=ウシキアリシチ=仲哀天皇」を葬り去ったのは「住吉大神」である。

しかしなぜ仲哀天皇は、自分の妃である神功皇后の船を襲おうとしたのか?

この「牛窓の伝承」を踏まえて「仲哀天皇8年」の記事を復元をしてみると、以下の事が分かる。

『仲哀天皇8年、仲哀天皇は、神懸かりした神功皇后から、「西海の宝の国を与える」との住吉大神の神託を受けた。

しかし熊襲征伐を優先したい仲哀天皇はこの神託を信じず、敢えて住吉大神の神託を信じて出航しようとする皇后の船団を妨害し、住吉大神を非難した。

しかしその直後、仲哀天皇は急死してしまい、人々は「住吉大神の祟りだ」と噂した』


これが「牛窓の神功皇后伝説」の真意だったのではないだろうか。


また、牛鬼を海中に沈めた「老翁」は「住吉大神の化身」とされているが、同じく住吉大神が老翁の姿となって現れるのが『謡曲・高砂(たかさご)』である。

この謡曲は現在でも「お目出度い歌」として結婚式などでよく歌われるので、ご存知の方も多かろう。

そのあらすじは、肥後(熊本県)の住人の一人の神官が、高砂の浦で老人夫婦に出会って、高砂の松と住吉の松とが、なぜ相生の松といわれるのか、その由来を教えられるものだ。

そこで神官は有名な、「高砂や、この浦船に帆をあげて……」という謡の通りに高砂の浦から船出して、住吉の浦に「早や、住吉に着きにけり」と到着すると、高砂の浦で出会った老翁が住吉大神となって現われ、美しい月光を浴びながら、太平の世を祝う舞を舞って次第に消えていくという、大層夢幻的で優雅なものだ。

しかし詳細に、この『高砂』を分析してみると、「高砂」は現在の兵庫県高砂市のことだと思われているが、「高砂」を「タカズナ」と読むと、これは「タカ=高」「ズ=ヅ=津」「ナ=国」で、「高津国」となる。

一方、住吉大神が神功皇后に与えると言った「宝の国」は、古来、朝鮮新羅の事とされてきたが、「タカラ」は「タカ=高」「ラ=国」であり、「津」は「~の」という助詞だから、「ノ=ツ=津」で、「タカラノクニ=高国津国」となる。

これは「高国津国」の方が「国」が一文字多いが、重複している国の字をひとつ削ると「高津国」となり、二つは同じ国だった事が分かる。

また古来、「高砂」は「台湾」の別称としても知られているし、この「タカラ」が「トカラ」の訛ったものだとすると、これは現在のトカラ列島の事で、「ツノガアルヒト」の本国である「意富加羅=倭・吐喝喇」と同じであった事がはっきりとする。

事実、「高国津国」を「タカラヅマ」と発音したものが訛った「宝島(=宝之国=タカラジマ)」が、トカラ列島には存在することからも明らかだ。

そして「高良=タカラ」と呼ばれる地名は、沖縄本島などにも見ることができるが、これは「タカラ=高国」で、「高津国」は「高の国」との意味だから、「高国=高の国=高津国」だ。

つまりこの台湾からトカラ列島を含む南西諸島が、「ソナカヒコ=仲哀天皇」当時、ソナカ王が支配していた倭人(ウワイト)の領土であり、さらに「翁国」と書けば「オキナマ=沖縄」だから、その首都はやはり、「ウチナ=大天」と呼ばれた沖縄にあって、それらは「宝の国=高津国=高砂」と総称されていたのだ

これはどう言う事かと言うと、住吉大神の「タカラの国を与える」との神託とは、「高砂=台湾」「翁国=沖縄」「宝の国=トカラ列島」を与えるとの意味だったのである。











続く

謎の神武東征⑩ 「仲哀天皇」と「アメノワカヒコ」に共通する「8年」

この「ツヌガアラシト」の別伝にある「牛」は「ウシキアリシチ」の「ウシ」だが、これにはもっと深い意味がある。

それは「御主」の事で、これを沖縄語で「ウシュ」と呼んだものが訛って「ウス・ウシ」となったものと同じなのだ。

かつて琉球王は「御主加那志前(ウシュガナシィメイ)」または「御主(ウシュ)」と呼ばれたから、「牛を失う」とは「御主(王)となる資格を失った」との意味で、ソナカヒコは皇太子であったのだが、その地位を失った事を指す。

またこの記述から、「失い」の元々の語源が「牛無い(ウシ・ナイ)」だった事が分かる。

しかしソナカヒコが「皇太子の地位を失った」のはなぜだろう。

それは村の老人が言っているように、その牛を「殺してしまった」からである。

どういう事かと言えば、これは暗に、「本国ではソナカヒコが死んだ事になってしまい、その地位が他の者の手に渡った」事を指し示すのではないか。

ソナカヒコは「生きながらに殺された存在となった」可能性が高いのだ。

彼の本国である「大天=沖縄=ウチナ」からは、海を渡らなければ他の島(シマ=之国)には行けないのだから、これは「海で遭難して死んだ事になってしまった」と考えれば話が早い。

そしてその後、「村の神様をもらう」のだから、ソナカヒコは皇太子の地位を失った代償として、「白い玉から生まれ、後に比売語曽の神となるヒミコ」をもらい、「村人を仏教に改宗させて君臨した」事になる。


どうして私がこのような事を言えるのかというと、実は「ヒメゴソ」がキーワードとなるこの事件の記事を『日本書紀』『古事記』の神話の中に発見したからだ。

913年、菅原道真が死んだ頃に政府が作った儀式の規定書「延喜式」には、全国の主な神社の神の名を書いたり、祭りの方法を書いたりしてあるが、その中に「下照比売(シタテルヒメ)は比売許曽(ヒメゴソ)の神」だと書いてある。

この「シタテルヒメ」は、神話に登場する「天の稚彦(アメノワカヒコ)」の妻となった人であるが、「シタテルヒメ」が「ヒメゴソ」であり「卑弥呼尊」ならば、「アメノワカヒコ」も「ソナカヒコ=仲哀天皇」だったはずである。

『記紀』に記されている神話の内容は、以下のとおりだ。

『天照大神の孫ニニギのミコトを、葦原の中つ国の国主にしたいと思った母方の祖父タカミムスビ(高皇産霊)のミコトが、葦原中国平定のために、そこへ次々に将軍を派遣するが、将軍は誰ひとりとして帰って来ない。

前に派遣された天穂日命(アメノホヒ)も3年たっても戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた。

しかし、アメノワカヒコは大国主(オオクニヌシ)と顕国玉(ウツシクニタマ)の娘・下照姫(シタテルヒメ)と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。

そこで天照大神とタカミムスビは、雉の鳴女(キジノナキメ)を遣し、戻ってこない理由を尋ねさせた。

すると、その声を聴いた天探女(アメノサグメ)が、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに進言し、ワカヒコは遣された時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた。

ところがその矢はナキメの胸を射抜いて、タカミムスビの前まで飛んでいって落ちた。

タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、彼は死んでしまった(趣意)』


これを『日本書紀』「仲哀天皇8年」の記事と比較してみよう。

『仲哀天皇8年、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げを受けた。

それは、西海の宝の国を授けるという神託であった。

しかし仲哀天皇はこれを信じず、住吉大神を非難した。

そのため住吉大神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。

遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された(趣意)』


「アメノワカヒコ」は、「8年たっても高天原に戻らなかった」と記されているが、これは「住吉大神の神託があった」とされる記事の年号、「仲哀天皇8年」と見事に一致している。

「仲哀天皇8年」とは、初期の天皇は「明治」とか「昭和」と言ったような元号を用いていなかったから、これは「仲哀天皇が即位して8年目」との事だ。

その8年前の「仲哀天皇元年」に、ソナカヒコの遭難とトカラ列島教化が起こり、意富加羅王・ソナカヒコが即位しているのだから、『記紀』の「仲哀天皇記」は、仲哀天皇(=アメノワカヒコ=ソナカヒコ)が遭難してトカラ列島に漂着し、その土地を仏教に教化して「意富加羅の王」に即位した年を「仲哀天皇元年」としているのだ。

つまり「仲哀天皇」も「アメノワカヒコ」も、本国を経って「8年目」に「神」が神託や使者といった方法で連絡を入れていると言う共通点が見受けられる。

そしてどちらも「神の意思」に背き、直後にその「神の怒り」によって殺されているのだ。








続く

謎の神武東征⑨ 新領土を開拓に行った仲哀天皇

お詫び:確認したら⑨が未投稿の状態になっていました・・・



これで「ツヌガアラシト=ソナカシチ」が「仲哀天皇」と同一人物だと分かったが、ここで大きな問題が発生した。

「ツヌガアラシト」がその徳を慕って会おうとした「御間城天皇」とは「崇神天皇」の事であり、その「御間城天皇の名を国の名前にせよ」と言った天皇はその次の「垂仁天皇」である。

『日本書紀』『古事記』によると、崇神天皇・垂仁天皇はそれぞれ第10代・11代の天皇とされている。

しかし仲哀天皇は第14代天皇であり、「崇神天皇の玄孫、垂仁天皇のひ孫」との位置づけになっているからだ。

そして「仲哀天皇=ツヌガアラシト」が崇神天皇に合おうとして渡来し、その次の垂仁天皇に使えたのであれば、「崇神・垂仁両天皇と仲哀天皇は、直接の血のつながりがなかった」事になるのだ。

しかしこれをいちいち説明していると、肝心の表題である「謎の神武東征」からは著しくかけ離れてしまう。

よって今は「神武天皇の敵はヤマト(邪馬台)だったか」に焦点を当てて話を進め、「崇神・垂仁両天皇と仲哀天皇との関連」については、改めて説明したいと思う。


これまでなぜ「神武東征」とは一見関連がなさそうな「仲哀天皇=ツヌガアラシト=ソナカシチ」について検証したか。

それはこの人物が「卑弥呼」と密接な関係にあるからだ。

『日本書紀』には、「ツヌガアラシト」の別伝として、以下の記述がある。

『ツヌガアラシトがある時、黄色い牛に農機具類をのせて田んぼへ行く途中、ちょっとしたすきに牛が消えてしまった。

そこで探し回ったところ、ある村で一人の老人が、「あんたが探している牛はここへ来たが、村長たちが殺して食べてしまった」と言い、「もし返してくれという者がきたら、なにかで弁償すれば済むとその村長は言っていたから、あんたはお金や物より『この村の神様をくれ』と言いなされ」と告げた。

そこでツヌガアラシトは村長に会ってその通りに言うと、村長らは白い石をくれた。

ツヌガアラシトがそれをもって帰って部屋に置いておいたら、美しい少女になった。

ツヌガアラシトはたいへん喜んだが、ちょっとよそへ行っている間に、その少女はいなくなってしまった。

驚いて妻に聞けば、東の方へ行ったと言うので、ツヌガアラシトはあとを追ってとうとう海を渡り、日本(ヤマト)にまで来てしまった。

少女のほうは難波(ナニワ)に着いて比売語曽(ヒメゴソ)社の神様になり、また移動して豊国のクニサキ(国前)郡の比売語曽の社の神様になった(趣意)』


お分かりになるだろうか?

この別伝の中に、「卑弥呼=ヒミコ」と思われる「比売語曽(ヒメゴソ)」との名前が出てくるのだ。

以前に鹿児島では「観音菩薩」を「ヒメコさぁ(ヒミコ様)」と言うと説明をしたが、これを「ヒメゴソの社」と比較してみると、「ヒメゴソの社=ヒメコソン社=卑弥呼尊(卑弥呼様)社」の意である。

そして「ツヌガアラシト」は「仲哀天皇」の事だから、この別伝では仲哀天皇はヒミコを追って日本に来たこととなっている。


この記述にある「牛に農機具類をのせて田んぼへ行く」とは、「田んぼを耕しに行く」事だ。

しかし「ツノガアルヒト」は「意富加羅の王子」と『日本書紀』に記されているのだから、王子自らわざわざ田んぼを耕しに行くとは思えない。

となるとこれは、「新たな領地を開拓に行った」と見るべきで「農機具=新領地開拓のための道具・手段」であり、「ツヌガアラシト=ソナカシチ=ソナカ彦=ソナカ王子」なのだから、これは「仏教」を指すととらえるべきだ。

つまり「農器具類を持って田んぼへ行く」とは、「新たな領地を開拓し、仏教を布教しに行く」との意味で、ソナカ宣布団の本来の目的の事だったのである。

これを「こじつけだ」と思われるかも知れないが、トカラ列島の中の「宝島」の観光パンフレットに、こんな記述があるのだ。

『琉球石灰岩質の宝島にはたくさんの鍾乳洞があります。(中略)中でも、この「観音堂」と呼ばれる鍾乳洞がもっとも大きく、奥行きは400mとも500mとも言われ、かつて「トカラ神道」と呼ばれた信仰の島内最大の拝所になっています』

お分かりになると思うが、宝島にはかつて「トカラ神道」と言われた古神道があったが、その聖地であった鍾乳洞は今は「観音堂」と呼ばれ、観世音菩薩が祀られた祠となっているのだと言う。

観世音菩薩は後に「ヒメコさぁ」と呼ばれ、卑弥呼と同一視される事になる仏であるから、この信仰をトカラ列島に持ち込んだのが「ソナカ宣布団」である事は、説明の必要がないと思う。

その信仰を持ち込んだ人こそが、「ソナカヒコ=仲哀天皇」なのだ。







続く

謎の神武東征⑧ 「ツヌガアラシト=ソナカシチ」と「仲哀天皇」は同一人物

ここまで「ツヌガアラシト=ソナカシチ」の来訪ルートについて見てきたが、では肝心の「仲哀天皇=足仲彦」との関連はどうだろうか。

『日本書紀』には「ツヌガアラシト」がケヒ(笥飯)の浦に着いた時、土地の人にこう語ったと記されている。

「この国には聖天子がおいでになると聞いてやってきましたが、アナト(穴門)に着いたとき、イヅツヒコ(伊都都比古)と名乗る人が、『わしがこの国の王だ。わし以外に王はいない。ほかへ行くことはない』といいました。しかし彼の様子はどうみても王様らしくないので、そこを出てあちらこちらたずね回って、出雲を経由してやっとここへやってきたのです」

これを『日本書紀』の「仲哀天皇紀」と比較してみると、

「仲哀天皇二年二月、角鹿に行き行宮を建てる。これが笥飯宮(ケヒのミヤ)である」

「同三月、熊襲がそむいたので船で穴門に向かって出発した」

「仲哀天皇八年正月、…筑紫・伊覩(イト)県主の五十迹手(イトタテ)が賢木(サカキ)に三種の神器を下げて出迎えたので天皇は喜んで誉めた」
とある。

一見して「ツヌガアラシト」と「仲哀天皇」は同じルートを辿っていることがお分かりだろう。

この「仲哀天皇八年」にある「伊覩(イト)」とは、「伊都都比古(イヅツヒコ)」の「伊都(イヅ=イト)」の事だが、「筑紫(ツクシ)の伊覩(伊都)」となると、『魏志倭人伝』に「魏の使者である悌儁(テイシュン)や張政(チョウセイ)が訪れた」とされる「伊都国」の事だ。

しかし「ツヌガアラシト」は沖縄からトカラ列島を経て出水に来たのだから、その経路のどこかに、「筑紫(ツクシ・チクシ)と「伊都(イト・イヅ)」がなければならない。

私が当初有力な候補と考えたのが、「筑紫=竹島」と「伊都=イズ=出水」であったが、「ツヌガアラシト」の来訪ルートに添って改めて地図を見てみると、沖縄本島に「具志頭」という地名を見つけた。

これは「グシカミ」とか「グシチャン」と呼ばれているが、「頭」は「頭痛(ズツウ)」の様に、「ズ」の発音を持つので、これを「グシズ」と読み、「ズ=ヅ」であるから「グシヅ」、さらにこれを清音であった古語の発音に直すと「クシツ」となる。

となるとこれは「ツクシ」の「ツ」の位置が移動したものと同じとなる。

そしてこの「具志頭」に隣接するのが「糸満」で、これは「イト・マ・ン=イト・国・の」と読める。

つまり「仲哀天皇八年」にある「筑紫・伊覩」とは、正しくは「具志頭・糸満」であった可能性が高い。


またこの具志頭からは1967年、港川地区の海岸に近い石切場で約1万7000年から8000年前頃の人の骨が発見され、地名から港川人と名付けられた。

港川の地名は明治30年に新たに付けられたものだが、港川人の発見は1万7000年以上前からこの地の海岸近くに人が住んでいた事の証拠であり、当然「港=津」が古くからここにあったものと想像される。

となると具志頭の「頭=ヅ」とは本来は「津=ツ」の事で、具志頭は「具志津(具志の港)」との意味であったと分かる。

私の住む秋田ではかつて港で栄えた「土崎」があるが、地元の盆踊りには「土崎港」ではなく、「港土崎は大繁盛」との歌詞が残っている。

これと同じように古くからの港のあった具志を、「港具志=津具志=ツクシ」と呼んだ人がいたのではないだろうか。

つまり「具志津(クシツ)」であろうが「津具志(ツクシ)」であろうが、意味する所は同じだったのだ。


そして今までの検証により、「ツヌガアラシト」と「ソナカシチ」も同一人物で沖縄から出発しているのだから、「仲哀天皇=足仲彦」も同一人物である可能性が高い。

そこで名乗りを見ていくと、「ソナカシチ」は「シ=ヒ」「チ=キ」と発音する沖縄後の特徴を考えると、「ソナカヒキ」となる。

そして「キ=木」と見れば、「木」は「木の葉(コノハ)」の様に「コ」の発音も持っているから、「キ=コ」で「ソナカヒコ」だ。

一方、仲哀天皇の「足仲彦」はこれまで「タラシナカヒコ」と読まれてきたが、これは「ソクナカヒコ」とも読める。

この検証の結果では、両者は「ソナカヒコ」と「ソクナカヒコ」の関係にあり、一見して似た名前であることが分かる。

さらに両者は「どちらも同じルートを辿っている」事が、ともに『日本書紀』の記述によって確認済みであるから、「仲哀天皇=足仲彦」と「ソナカシチ=ツヌガアラシト」は同一人物だと言っていい。










続く

謎の神武東征⑦ 「ツヌガアラシト」の来訪ルート

また「ソナカシチ」は、大隅語で「牛の頭」を「ソのカシラ」が訛った「ソナカシタ」と発音するのに近い。

朝鮮語で「牛=ソ」と読むのと同じ発音であるが、これは牛の頭、すなわち「牛頭(ゴズ)天王」の事で、先に見た「ツヌガアラシト」の別名の「ウシキアリシチ」の「ウシ(牛)」である。

伝承では「牛頭天王」は、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神で、陰陽道では天道神と同一視されており、神仏習合では薬師如来の垂迹(仮の姿)であるとともに、スサノオの本地(本来の姿)とされ、京都祇園祭の祭神でもある。

となると「牛頭天王」は「薬師如来」「スサノオ」と同一という事であり、「仏教」とは切っても切れない関連だという事だ。

そして「牛頭=牛の頭=ソナカシタ(ソナカシチ)」なのだから、やはり「ソナカ」は仏教宣布団の指導者であった可能性が高い。

この事は後で詳しく検証するとして、この薬師如来の「薬師=ヤクシ」は「屋久之」と当て字でき、これに「国=マ」をつけると「屋久之国=ヤクシマ(屋久島)」となる。

また『日本書紀 5巻の2』には、「任那は、筑紫國を去ること二千餘里。北、海を阻て以て鷄林の西南に在り」と記されているが、『謎の神武東征①』で見たとおり「筑紫國」は「チクシマ=竹島」の事である。

「鷄林」は上古代の中国語の発音では「チリン」となるので、鹿児島県開門地区にある「知林ガ島=鷄林ガ之国(チリンガシマ)」であり、その「竹島」「知林ガ島」の西南にあるのが吐喝喇(トカラ)列島で、ツヌガアラシトが来たとされる「意富加羅」を「イトカラ」と読むと「イ・トカラ=倭・吐喝喇(倭の吐喝喇)」となる。

そしてこのトカラ列島にある宝島の中心には「イマキラ岳」という山があるが、これを「ミマキ・ラ=御間城・国」だとすると、「崇神天皇の名である御間城を国名にした」との記述と一致するではないか。

また『魏志倭人伝』によると、「對海(対馬)國から末盧(松浦)國までが二千餘里である」という記事がある。

これは「筑紫國〜意富加羅間」と同じ距離だ。

この対馬の南端である神山から長崎県松浦市までの距離を、竹島〜トカラ列島間に当てはめると、竹島からトカラ列島最北端の口之島までの距離とほぼ一致するのだ

つまり、「任那は、筑紫國を去ること二千餘里。北、海を阻て以て鷄林の西南に在り」とは、「ミマナは、竹島を南西に去ること二千余里、竹島の北には海を隔てて知林ガ島があり、以てその西南にあるトカラ列島の事だ」読むべきである。


となると「ツヌガアラシト」が「出雲(島根県)を経て、越の国の角鹿(敦賀・福井県)の笥飯(気比)浦に来た」とする『日本書紀』の記述は、どうなるだろうか。

「ツヌガアラシト」の本国がトカラ列島だとするならば、島根を経由して、敦賀の気比に来たのでは余りに遠回りである。

トカラ列島から上陸するには、島根よりも九州が近いことは常識であり、その中でも鹿児島が最も近いのだから、出雲もこの地域にあったと見るべきである。

地図を見てみると、八代海に面した所に鹿児島県出水(イズミ)市がある。

「出水(イズミ))」と「出雲(イズモ)」は一見して似た発音である事が分かるが、これをアルファベットで表記してみると、「イズミ=izumi」「出雲=izumo」で、最後の「i」と「o」が違っているだけだ。

では「角鹿(ツヌガ)」はどうだろう。

沖縄語では「ツ」を「チ」と発音する場合も多く、また古い日本語の特徴として「我(ガ)」は、古代には「カ」と濁らずに発音していた。

となると「ツヌガ=チヌカ」であり、これは耳で聞くと「チンカ」とも聞こえるが、実は沖縄語では「チンカ=天下」との意味なのだ。

では「天下=チンカ」とは何を指すのか。

沖縄は今でも土地の人には「ウチナー」「ウチヌ」と呼ばれている。

このうち「ウチナー」は江戸時代に新井白石が「沖縄」と当て字したものの語源であるが、「ウチヌ」の「チヌ」は「チヌ→チン→天」であり、「ウ」は「大=ウ」であるから「ウチヌ=大天」で、「沖縄=ウチヌ=大天」となる。

そして「天下」とは「天の下」との意味の他に「天から下る」との意味もあるから、「大天から下る」、つまり「沖縄から(ヘ)下向する」と捉えると、「ツヌガアラシト(=ソナカシチ)が角鹿(=チンカ=天下)に来た」とは「沖縄から下向した」のか「沖縄へ下向した」と見ることができる。

以上を踏まえて地図を見てみると、沖縄本島にほど近い沖永良部島に「知名町」がある。

これは「知名=チィナ=チィ国」で、沖縄語では「キ」を「チ」と発音するから「チィ=キィ」、さらに沖縄語の「カキクケコ」は「カキクキク」であるから、「キィ=ケィ」となり、古語で「イ」は「ヒ」と表記するから「ケィ=ケヒ」。

つまり発音変換すれば「知名=ケヒ国=笥飯国」となるのだ。

これを「コジツケだ」と思われるかもしれないが、この沖永良部島には「越の国」に相当すると思われる「越山(=コシヤ・マ→コシヤ・国→コシナ・国→コシノ・国→越の国)」がセットになって存在している。

そして『日本書紀』は「ツヌガアラシト」の来訪ルートを「出雲(出水)を経て越の国(越山)の角鹿(天下=沖縄から下向した先)の笥飯(ケヒ国=知名)浦」としているが、これは地理的関係上、前後が逆になっている事は明白で、正しくは「沖縄を経って沖永良部島・トカラ列島を領土に加え、出水に着いた」とするべきである。







続く

謎の神武東征⑥ 「ソナカシチ」と「ツヌガアラシト」

「任那」から最初の朝貢のために蘇那曷叱知(ソナカシチ)は、崇神65年に来日し、垂仁2年に帰国したが、帰国の際に賜った品物を途中で新羅が奪ったので両国の怨が始まったと伝えられている。

彼は意富加羅国、つまり任那加羅(金官:韓国金海市)から渡来した王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と同一人とみる見解があり、「蘇那(ソナ)」は金の国、「曷(カ)」は大または加羅、「叱知(シチ)」は首長の意なので、「鉄(金属)の国を意味する素奈羅(ソナカ)」の中国風の表記と見られているのが一般的である。

そして「金官国(任那加羅)」の「王または王子」という点で「ソナカシチ」と「ツヌガアラシト」の両者は一致するのだと言う。

ではその、「ツヌガアラシト」についても見てみよう。

『日本書紀』には、別名・于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)とあり、崇神天皇のとき、天皇に会おうと出雲を経て笥飯浦(敦賀市)へきたが、崇神天皇が亡くなったのでそのまま留まり、次の垂仁天皇に3年仕えた。

垂仁天皇は、「御間城(崇神)天皇の名をお前の国の名にせよ」と命じ、赤絹を与えて彼を本国へ帰し、これが弥摩那(御間国=任那=ミマナ)という国名の起源となった。

その後、新羅国の兵が赤絹を奪ったので、以来この両国は恨み合っているのだと言う。


都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と 于斯岐阿利叱智(ウシキアリシチ)を比べてみると、「アラシト」と「アリシチ」は本来同じものだったことは一見してわかる。

残る「ツヌガ」と「ウシキ」はすでに「角(ツノ)が」と「牛岐」であるという定説があるので、これだけでも「角がある人」と「牛である人」という風にとれ、「その外観を形容したもの」と見ることができる。

では蘇那曷叱知(ソナカシチ)はどうなるか。

これを日本周辺にある語にあてはめてみると、朝鮮語では「牛」を「ソ」と言うので、「蘇」が「牛」であったとすることができる。

これをさらに精密に検討してみよう。

「都怒=ツヌ」は上代文献で間違いなく「角」の意味に使われている。

「アラ」が「有る人」であるかどうかは後にして、「人(ひと)」を「シト」と発音するのは、沖縄語で「ヒ」を「シ」と発音したものと同じだし、現在も江戸弁などに見られる特徴だ。

これは上代古語人語の特徴に両方ともピッタリ合う。

「牛岐」がこの「角が」に当るとすれば、この「岐=キ」の字は沖縄弁の助詞「チ=津」、すなわち本土語の「が」「ケ」であるとすることができる。

また「荒(あら)」を沖縄弁では「荒(アリ)地」という風にも発音し、「シチ」沖縄弁の「人」を表す「チュ」であると考えると、「之人(シチユ)」に一番近い。

つまり整理すると、この3つの名乗りは、

「ツヌガアラシト=角が荒之人(ツノガアリシチュ)=(牛の様な)角が有る人」

「ウシキアリシチ=牛津荒之人(ウシツアリシチュ)=牛(の様な角)が有る人」

「ソナカシチ=牛ノガ之人(ソノガシチュ)=牛の(様な角)が(有る)人」


となり、ところどころ虫食いの様に抜けている部分を補完すれば、どれも「牛の様な角がある人」となるのだ。

さらに「ソナカシチ」と「ツヌガアラシト(ウシキアリシチ)」の類似点を比較すると、

①どちらも任那の王族である。

②どちらも崇神天皇の治世に来訪している。

③崇神天皇の死後も数年留まって次の垂仁天皇に仕え、後に帰国している。

④帰国の際に賜った品を新羅に奪われ、以来任那と新羅は対立している。


となるから、やはり二人は同一人物であると断定できる。







続く

謎の神武東征⑤ ソナカ仏教宣布団の渡来

所謂「邪馬台国」については、現存する全ての『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国(ダイコク)について「於て邪靡堆(ヤビタイ)に都す。則ち魏志(倭人伝)に謂う所の邪馬臺の者也」となっている。

つまり邪馬台国には「邪馬臺」と「邪馬壹」二つの表記があるのだ。

日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字であり、「臺」は台にあたる文字である。

余談ではあるが、私の住む秋田市には、戊辰戦争当時に秋田藩が官軍に味方した際、これを説得して奥羽越列藩同盟に留まらせようとした仙台藩士が処刑されてしまい、後にそれを悼んで建てられた『仙台藩士殉難之碑』という石碑があるが、その碑には「仙台」ではなく、『仙臺』と記されている。

従来表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説のほか、「壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字(曹魏の武帝・曹操は、鄴に都して「銅雀臺」を建てた)を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説などがある。

以上が邪馬台国に関する通説だ。

そしてその女王・卑弥呼であるが、彼女は「ヒミコ」と呼ぶのが当然になっているが、彼女の漢字の3世紀・曹魏での発音は「ペミャガ」である。

この「ペミャガ」は実はインド・パーリー語の「ピー・ミヤル・グァ=愛」と非常に近い発音だ。

邪馬台国の話なのになぜここで突然、インド・パーリー語が出てくるのかと思われるだろうが、実は鹿児島にはこんな話がある。

鹿児島では「観音詣で」のことを「ヒメコさぁに行く」と言うのだ。

もしこの「ヒメコさぁ」が「卑弥呼」を指すのであれば、「ヒメコ=卑弥呼=観音菩薩」となり、これは大変な事だ。

邪馬台国は仏教国だったかも知れないからである。

そしてインドのパーリー(巴利)国は、マウリヤ朝マガダ国の3代国王・アショカ王によって東方に派遣された仏教宣布団の指導者・ソナカ王の出身地でもある。

これは単なる偶然だろうか?

ソナカ一族のインド出発は紀元前3世紀とされ、現在のミャンマー・タイなどを仏教国としたが、その先の記録は残されていないと言う。

余談ではあるが、西に向かった宣布団は最終的にエジプトに到達し、アレキサンドロス図書館に仏教の経典を納めている。

しかし『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』によれば仏教は6世紀に百済から伝来し、欽明天皇の命により蘇我蝦夷の父・稲目が自宅に仏像を安置して試みに信仰したのが始まりとされており、これ以前に仏教が伝来していたとされる記録は残されていない。

しかし検証を進めていくと、何と「ソナカ」の名前が『日本書紀』『古事記』に記されている事が分かったのだ。

それも何と、第14代天皇・仲哀天皇の名乗りの中にである。

仲哀天皇は『日本書紀』によると、正しい名乗りは足仲彦(タラシナカツヒコ)天皇である。

これは「足仲彦=ソナカヒコ」と読めなくもない。

また、仲哀天皇の皇后である神功皇后の正式な名乗りは、『古事記』によれば息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)で、こちらも「息長=ソナカ」が入っている。

そしてこれとは別に、「ソナカ」が我が国に渡来した決定的記録が『日本書紀』に残っていた。

『日本書紀』によると、崇神天皇65年に来日して垂仁天皇2年に帰国した「任那」からの最初の朝貢のための使者が蘇那曷叱知(ソナカシチ)であったとある。

そして蘇那曷叱知と言う名乗りの中に、はっきりと「蘇那曷=ソナカ」が入っているし、「シチ」を沖縄語で読むと、「シ=ヒ」「チ=キ=木=コ」となるから、この名乗りは完全に「ソナカヒコ=足仲彦」と一致するのだ。

これは俄然面白くなってきた。

神武東征からは話がそれるかも知れないが、だが今だ未解明な邪馬台国についての貴重な情報となる可能性がある。

また先に「日本人のルーツ」述べた、「倭=ウワイ=女性仏教徒」とも関連する話だ。

少々長くなるかも知れないが、徹底検証してみたい。







続く

神武東征の謎④ 神武東征の 「ヤマト」は鹿児島?

神武天皇が鹿児島湾沿岸を避けて転々と移動を繰り返したのはなぜか?

思うに、敵があまりにも強大な勢力であったため、背後に回り込んで不意を突く、「奇襲戦法」を取ろうとしたのではないだろうか。

そしてこの敵地こそが、神武天皇が「美味し国」と呼んだ「ヤマト」であった可能性が高い。

しかし古来神武天皇が攻略したのは「ヤマト」は「大和=奈良県」というのが通説である。

果たして鹿児島に「ヤマト」は存在したのであろうか?


これを解くカギは「琉球語」にあった。

琉球の人々は自分たちの事を、「ウチナ(沖縄)の人」という意味で、「ウチナンチュウ」と呼ぶ。

そして特に鹿児島県の人を指して、「ヤマトンチュウ(ヤマトの人)」と呼び、それとは区別して鹿児島県以外の内地の人を「ウフヤマトンチュウ」と呼ぶのだ。

この「ウフヤマト」とは「大大和(オオヤマト)」の事で、「遠天皇(トオスメロギ)の畏くも、肇め給いし大大和」との言葉に見られるように我が国の古い呼称の一つであるが、では何故鹿児島人だけを「ヤマトンチュウ」と呼ぶのか。

これは鹿児島がかつて「ヤマト」と呼ばれた名残なのではないだろうか。

そして「九州にあったヤマト」と言われると、我々の中では1つの政権を思い浮かべる人も多いかと思う。

そう、あの女王・卑弥呼が君臨したと言われている「邪馬台国」だ。

確かに「邪馬台」も「ヤマト」と読むことができるし、何より神武天皇の言う「美味し国=ウマシクニ」の「ウマ」は邪馬台の「馬=ウマ」に符合する。


しかし『日本書紀』や『古事記』によれば、神武天皇の即位は紀元前660年とされ、『魏志倭人伝』などに記録のある「邪馬台国」は西暦(紀元後)240年頃の政権なのだから、時代が違うと思われる方もいるだろう。

ただ『日本書紀』『古事記』には、100歳以上も生きたと言われている天皇やその家臣が何人も登場しており、中には「130歳の超高齢天皇」など、普通に考えればとても有り得ない話が平気で記載されている。

これは回を重ねる中でおいおい書こうと思うが、少なくとも『日本書紀』『古事記』には鵜呑みにできない記述が多く見られるという事だけを覚えておいていただきたい。


そして「邪馬台国だってどこにあったのか、今だに解明されていないではないか」とおっしゃる方も多いだろう。

では次回以降は邪馬台国について検証してみたい。





続く

プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

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