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謎の神武東征③ 鹿児島県内を移動した神武天皇

さて、3年から5年の長きに渡って軍備を十分に整えた神武天皇は、ようやく大船団を率いて東征を開始する。

そして「船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦(ウヅヒコ)(宇豆毘古命)後の椎根津彦(シイネツヒコ)を水先案内とした」とある。

これを詳しく見てみると『古事記』には、「天皇たちが速吸門(ソキウのト)に差し掛かった時、亀の甲羅に乗って釣りをしながらやってくる人に出会った。そこで槁機(サオ)を差し出してその人物をつかまらせ、船に引き上げて水先案内人とした。この人を槁根津日子(サホネツヒコ)と言う」とある。

また『日本書紀』にも同様に、「椎槁(シイサオ)の端を持たせて船に引き上げたので、以後、椎根津彦(シイネツヒコ)と呼んだ」とある。

しかしこの「槁根津日子=椎根津彦」は「国津神の珍彦(ウヅヒコ)」であり、後に神武天皇の軍師となる人物だ。

それがまるで遭難して助けられた漁師のような登場の仕方をしているのは変である。

おそらくこの「槁根津日子=椎根津彦」は、神武天皇の援軍要請に応えて水軍を率いてきた、南方諸島の王の一人であったのだろう。

それは彼が「国津神」であることからも分かる。

「国津神」とは、「その国土着の神」と言う意味であるが、これを今風に解釈すると、「その土地の土着政権の王」となる。

「神武東征」は建国神話の物語なので、登場人物は皆、「神」や「神の子孫」となっているが、これを「建国神話」ではなく「歴史」ととらえて「神=王」「神の子孫=王の子孫」と置き換えると、非常に分かりやすくなってくる。


こうして「槁根津日子=椎根津彦」率いる水軍と合流した神武天皇は、戊午年の2月に浪速(ナミハヤ)国に至る。

この「浪速国」だが、古来より現在の「大阪」を指すとされてきた。

しかし南九州で南方諸島の水軍と合流した神武天皇軍が、一足飛びに大阪に向かったと言うのは、話が飛躍しすぎる感がある。

実はこの「浪速・難波」に関しては、歴史言語学者の加治木 義博氏が、以下の通り興味深い考察を述べている。

「沖縄の首都・那覇は、これまでまるで外国の地名のように見られ思われてきたが、那覇は間に助詞を挟むと那ヌ覇=ナヌハ=難波・浪速になり、この助詞をガにすると那ガ覇=ナガハ+国(マ)=長浜である」

この「那覇=浪速・難波=長浜」をもとに鹿児島の地図を調べていくと、鹿児島県薩摩川内市の離島である下甑(しもこしき)島に、「長浜」と言う地名が残っている。

そして天皇は「3月、河内国に入る」との記事があるから、これも「河内=大阪」ではなく、「河内=川内」だとすれば、下甑島の東の対岸・薩摩川内市の事だ。

つまりここまでの検証では、神武天皇は鹿児島県内を移動している事になり、逆に言えば、鹿児島県内から出ていないと言える。

しかも現在の鹿児島市・姶良市・霧島市などの鹿児島湾沿岸を、わざと避けているように転々としているのだ。

神武東征関連地図3


これから言えることは一つ。

鹿児島湾沿岸に一大勢力があり、その勢力こそが神武天皇の敵だったからではないだろうか。





続く





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謎の神武東征② 「神武東征」と三国志「孔明南征」の共通点

神武天皇は「乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮(あんぐう=仮御所)をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた」とある。

しかしこの前年の12月の時点で、神武天皇はまだ薩摩半島の開聞岳付近の「埃宮」にいた訳で、この間に3か月はあったのだが、戦いらしい戦いもなく、「吉備国」すなわち今の岡山県を中心とする「備前・備中・備後」地域に兵を進められたとは考えにくい。

事実、その後天皇は、「高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた」とあるので、兵も食料もそれらを輸送する軍船も、全く十分ではなく、再び進軍を開始するまで「3年から8年もかかった」と言っているのだ。

この様に準備が不十分な状態で「日向(宮崎)→筑紫(福岡)→安芸(広島)→吉備(岡山)」へと兵を進められる訳がない。

途中には当然、土着の政権や豪族があり、少ない兵力では彼らに進軍を妨害される事は必至である。

また「腹が減っては戦はできない」の例え通り、食料が乏しくては遠征軍は自滅してしまう。

そのため、東征前には十分な軍備を本国で整えておく必要があり、①で見たとおり、「東征前の南征」もその一環だったのだ。

とすれば、「吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた」との記事も「南征の延長」であり、当然本国かその付近での出来事と考えるべきである。

この事を踏まえて薩摩半島の地図を見てみると、「埃宮」の置かれた開聞地区の北に、吉見山を中心とする「吉見地区」が存在する。

「吉備=キビ」は「吉見=キミ」だったと考えるのが妥当だろう。

その吉見地区の西側には、広大な平野部が広がっている。

つまり神武天皇は、吉見地区から西の平野部を占領し、ここを食料生産の一大拠点としたのだ。


残る「高島宮の行宮」だが、鹿児島語では「タケ」を「タカ」と発音するので、これは先に見た「筑紫国=竹島」が「タケシマ=タカシマ」と訛ったものだろう。

となるとこれは、「神武天皇が竹島に軍港を作った」と見るべきだ。

これは何故かというと、宇佐津彦などの竹島の人々は、当然海運などによって生計を立てていたと思われる。

彼らを用いて海軍を作らせるには、竹島はもってこいの場所だったのだ。

さらに竹島の南には「屋久杉」など、良質の木材を産出する「屋久島」がある。

この屋久杉などを薩摩半島に運んで軍船を作るより、竹島の方が時間が短縮できるし、何より海運が盛んな竹島には、優れた船大工たちが居たのだろう。

つまり今様に言えば、「開聞の埃宮」とは「陸軍参謀本部」であり、「高島の行宮」は「海軍軍令部」に相当する機能を持っていたと思われる。

こうして3年から8年をかけて十分に兵を訓練して兵糧を蓄え、軍船を用意した神武天皇は、ようやく本格的な「東征」に打って出るのである。


これを書いていてふと思ったことがある。

中国の三国志の時代、この神武天皇と全く同じやり方で戦を準備した人物が居たことを思い出したのだ。

それは蜀漢の丞相・諸葛孔明その人である。

蜀漢の丞相となり、全権を握った諸葛孔明は、益州南部(雲南)で雍闓・高定らが南蛮族の王・孟獲と組んで反乱を起こすと、自ら軍を率いて225年に益州南部四郡を平定した。

これが「孔明の南征」であるが、孔明はこの時、神武天皇が東征を始めた時と同じ45歳であった。

南征の後、孔明はこの地方の財物を軍事に充て、さらに蛮族の若者を選りすぐって1万人からなる新兵である「飛軍」を創設している。

またこの南征は、孔明自身が行った「大規模軍事演習」的な意味を持っていたと言われる。

南方を平定し、兵を訓練して兵糧を十分に備蓄した孔明は、2年後の227年、皇帝・劉禅に奉った有名な「出師の表」の中で、「今南方已に定まり、兵力已に足る。将に三軍を将卒して北の方・中原を定むべし」と述べ、魏討伐の兵を挙げる。

これが「孔明の北伐」であるが、この蜀漢は漢王朝の正当たる後継王朝を称していたものの、実際には当時の中国の14州のうち、西南部に当たる益州(現在の四川省と雲南省)ただ1州を治める地方政権に過ぎなかった。

神武天皇の言う、「我が領土は未だに西辺にあり、全土を王化していない」と同じ状況であったのだ。

そして孔明の言う「中原」とは「国の中心」の意味で、一方の神武天皇の言う「六合の中」も「国の中心」の事である。


さらに比較すると、「神武天皇は息子の手研耳(タシギミミ)命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け天皇の軍は倒れた」との記述があるが、孔明の南征でも、蜀漢軍は毒の泉の水を飲んでしまい、将兵は倒れ、一時進軍が不可能になっている。

これを救ったのが神武東征では天照大御で、「霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を天皇に献上した。天皇が剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した」とある。

これに対して「孔明南征」では、以下の記述がある。

『孔明はなす術もなく、近くの廟に詣でて祈りを捧げたところ、老人の姿をした神が現れ、「万安渓に住む万安隠者を訪ねてそこにある安楽泉の水を飲めば毒は消える」と教えられる。孔明はさっそく万安隠者を訪ねて将兵らを救った』

双方とも「神が毒気に苦しむ将兵を救う方法・手段を与えている」事が一致している。


また『先代旧事本紀』巻5天孫本紀では、物部氏の祖神である饒速日(ニギハヤミ)命の子で尾張連らの祖・天香語山命(彌彦神社の御祭神)の割註に、天降の名・手栗彦命のまたの名が高倉下命であるとしている。

「神武東征」では、神武天皇側は、「聞けば東に美しい土地があるという。青い山が四周にあり、その地には天から饒速日(ニギハヤミ)命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と言っているので、神武天皇は、饒速日の治める東方を征服する事が目的なのであり、そうなると「饒速日=神武天皇の敵方」となる。

その饒速日の子が高倉下(タカクラジ)なのだから、神武天皇を迎え撃つ饒速日の側には「身内に裏切り者が居た」事になる。

そして「孔明南征」に於いて蜀漢軍を救った万安隠者とは、実は弟たちのやり方に反発して隠遁していた、孟獲の兄・孟節だったのだ。

つまり双方とも、「敵の身内の裏切りに助けられた」事になるのだ。


これほどまでの証拠が揃っていれば、「神武天皇は諸葛孔明だったのだ!」と思われる方もいるかも知れないが、そうではない。

日本神話の「神武東征」は成功しているが、「孔明の北伐」は得るところ少なく、成功しなかった点で大きく食い違う。

そしておいおい明らかにしていくが、私の調べた限りに於いてこの「神武東征」は、「邪馬臺国と同じ、3世紀前半の記録」であるからだ。

一方の諸葛孔明が活躍した時代もやはり3世紀の前半(208年~234年)であるが、お互いの場所があまりにかけ離れている。

なので神武天皇と諸葛孔明は同一人物とは言い難い。


では何故「神武東征」には「孔明南征」とよく似た記述が見られるのか。

そもそも『古事記』『日本書紀』が作られたのは8世紀の事で、その大目的は、「我が国の王朝の歴史と正当性を、唐(中国)に訴えるためのもの」である。

その証拠として、中国人に読ませるために『古事記』『日本書紀』は全文が漢文で書かれている。

当然作成に当たっては、中国の文献を研究したはずであるし、その中には陳寿の『三国志』も含まれていたのだろう。

『古事記』『日本書紀』を作った人々は、「神武東征」の記事を作るに当たって、「孔明南征」の記述を随分参考にした事実がこれによって伺い知れる。





続く



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謎の神武東征① 神武天皇は最初は南征した?

『古事記』『日本書紀』などの神話によると、「神武東征」とは以下のような物語である。


甲寅の歳、神武天皇45歳のとき、日向国の地・高千穂宮にあった天皇は兄弟や皇子を集めてこう言った。

「我が領土は未だに西辺にあり、全土を王化していない。聞けば東に美しい土地があるという。青い山が四周にあり、その地には天から饒速日(ニギハヤミ)命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」

諸皇子はみなこれに賛成し、東征が始まる。

太歳甲寅年の10月5日、天皇は兄の五瀬(イツセ)命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子(アメノタネシ)命と娶せた。

筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。

乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。

船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦(ウヅヒコ)(宇豆毘古命)後の椎根津彦(シイネツヒコ)を水先案内とした。

戊午年の2月、神武天皇は浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。

しかしこの地を支配する長髄彦(ナガズネヒコ)が軍衆を集めて孔舎衛坂(くさえざか)で戦いになったが、戦いに利なく、五瀬(イツセ)命が流れ矢を受けて負傷、後に五瀬命は矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去する。

神武天皇は、「日の神(天照大神)の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだ」と悟り、兵を返して草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。

5月、磐余彦は船を出し、名草戸畔という女賊を誅して熊野に入り(熊野迂回)、再び船を出すが暴風雨に遭い、陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯(イナイイ)命と三毛入野(ミケイリノ)命が入水した。

神武天皇は息子の手研耳(タシギミミ)命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け天皇の軍は倒れた。

東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は、武甕槌(タケミカヅチ)神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を天皇に献上した。

剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開したが、山路険絶にして苦難を極めた。

そこで、天照大御神は「八咫烏」を送り教導となし、天皇は八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。


これを「神話」と見る分には何の疑問も持たれない事だろうが、「歴史」として見たならばどうだろう。


古来この記事は、「神武天皇が日向(宮崎県)から大和(奈良県)へ攻め入り、大和朝廷を建てたもの」とされてきた。

しかし現在でも分かるように、九州は温暖な気候で知られ、『魏志倭人伝』によると卑弥呼の時代には、「冬でも野菜が収穫できた」との記述があるし、海に面しているため魚介類も豊富に取れる。

一方の大和(奈良)は現在でも冬はマイナスまで気温が下がることがあり、当然冬に野菜は収穫できず、また、四方を山に囲まれているため、魚介類も手に入れづらい。

これで見る限り、現在のように食糧事情が良くなかった古代に於いては、大和は「不毛の地」であり、九州の方が「はるかに豊かな国だった」ことは明白だ。

こんな不毛の地を、わざわざ九州から大軍を引き連れ、3人の兄を失ってまで数年をかけて占領したところで、算盤勘定が合うはずがない。

となると神武天皇は「騙されて」東征を始めたのだろうか?


ここで私が注目したのは、『太歳甲寅年の10月5日』の、「天皇は兄の五瀬(イツセ)命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子(アメノタネシ)命と娶せた」との記事だ。

「天種子命」と同じ名前を持つ、「種子島(たねがしま)」が大隅半島の南にある。

これは天皇が日向から筑紫(福岡)に向かったのではなく、船で一旦種子島に向かい、種子島王である天種子命以下の軍と合流した記録ではないのだろうか?

そして「12月に安芸国埃宮に居る」の「安芸」は、現在の広島県ではなく、「安芸=アキ=開き」だとすれば、鹿児島県の薩摩半島南端には「開聞岳(カイモンダケ)」がある。

神武天皇はこの開聞地域に宮を造って居住したのだ。


となると途中立ち寄った「筑紫国」も福岡の事ではなく、種子島と薩摩半島の中間に位置する「竹島」だった事が分かる。

古代日本では「国」の事を「ラ」「マ」「ヤ」「ナ」と発音した人々がいた。

これで比較すると、「筑紫・国=チクシ・マ=竹之・国=タケシ・マ=竹島」となり、神武天皇が「日向→種子島→竹島→開聞」と移動した事実がより鮮明になる。

ここで疑問が残るのが「筑紫国の宇佐」との地名であるが、大分県の北部、国東半島の付け根に位置する宇佐市には、全国八幡宮の総本宮・宇佐神宮があり、ここのことだとされてきた。

しかし大分県は厳密に言えば古代「豊の国」であり、後の「豊後国」であって、古代の「筑紫国」、後の「筑前国」「筑後国」とは別の国であるから、この場合「筑紫の宇佐=大分県宇佐市」とするのはおかしい。

だがここで、この「宇佐」を琉球などで「王」を意味する「御主(ウシュ・ウス)」の訛ったものだとすると、「筑紫国の宇佐」は「竹島の御主(王)」の意味となる。

事実この地を治めていたのは「宇佐津彦」で、これは「御主の彦」との名乗りである。

そして神武天皇は、「天種子命(種子島王)」と「宇佐津彦」の一族である「宇佐津姫(=御主の姫=竹島の王女)」を結婚させているのだから、これは宇佐津彦の協力を取り付けるための政略結婚であった事が分かる。


ここまで見てみると、神武天皇は東征の前の準備として初めは南征し、南方諸島の王の協力を取り付けていた事実が浮かび上がった。

では実際に、神武天皇が東征して攻め滅ぼした「長髄彦(ナガズネヒコ)」政権との戦いはどうであったのか、また、それは本当に大和にあった政権なのか、次回以降で検証してみたいと思う。




続く




「閑話休題」改め「幕末維新の謎」①- 明治大帝に関する謎 -

ここまでしばらく、「閑話休題 日本史に於ける呉越」として書いてきたが、幕末から明治にかけての最大のクライマックス・戊辰戦争の件に入るにあたり、タイトルを変えてみたいと思う。

戊辰戦争に至る歴史にはとかく謎が多いからだ。

これまでの流れでは、長州藩が「朝敵」「逆賊」とされ、幕府+会津藩+薩摩藩が「公武合体(幕府と朝廷を合体させた新政府樹立)」を唱えてこれと対立してきた。

しかしこの構図がある時を境に崩れるのである。

そのきっかけが、「孝明天皇の崩御と明治天皇即位」そして1868年から始まる「戊辰戦争」なのだ。


慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御。

慶応3年1月9日(1867年2月13日)、祐宮(さちのみや)睦仁親王(明治天皇)、満14歳で践祚の儀を行い皇位に就く。

元服前の践祚であったため、立太子礼を経ずに天皇となっている。

翌慶応4年1月15日(1867年2月8日)、元服。同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて御大礼を執り行い、即位したことを内外に宣下する。



ここで注意深い人なら「おや?」と思うはずだ。

そう、孝明天皇が崩御し、新たに明治天皇が践祚するまで、およそ14日間「皇位の空白」が生じているのだ。

そして孝明天皇が崩御したにもかかわらず、「慶応」の年号が改元されることなく、相変わらずに2年間も使われ続けている。

これには「睦仁親王(明治天皇)が元服前で立太子(皇太子に立てられる)されていなかったからだ」とか、「現代のように皇室典範がなく、規定が曖昧だったからだ」「天皇の崩御を伏せていたからだ」などの意見があるが、果たしてそれだけだろうか。

まず「皇位の空白」であるが、現在の「皇室典範」によれば、践祚にかかる儀式を『践祚の儀』という。

践祚(せんそ)とは天子の位を受け継ぐことであり、「践」とは位に就くこと、「祚」は天子の位を意味し、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。

先帝崩御後直ちに行われるこの『践祚の儀』に続いて、『剣璽等承継の儀』及び新帝が即位後初めて三権の長(内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官)を引見される『即位後朝見の儀』を行うのが規定だ。

これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを「即位」といい、新帝が高御座(たかみくら)に昇って内外に即位を宣言する一連の儀式を『即位の礼』と言う。

当時は皇室典範がまだ定められていなかったが、「践祚を先帝崩御後直ちに行う」のは、第51代の平城天皇以来の「しきたり」であり、この孝明天皇崩御の際に限って、何故践祚まで14日もかかったのかは疑問でならない。


また明治天皇以前は、一代の天皇が一つだけ元号を用いる「一世一元の制」は採られておらず、むしろ天変地異や世の中の吉凶がある度に、元号がころころ変更されてきた。

そして「天皇の崩御」と言えば天変地異とは比べるべきもない、「不幸の中の不幸」「災いの最たるもの」である。

元号が変えられて当然であるべきはずなのに、何故かそれがなされていないのだ

ちなみに孝明天皇が崩御されたのが旧暦の12月25日、新暦ではあるが、1926年の同じく12月25日に崩御された大正天皇の場合、即日改元が施行され、1926年12月25日から「昭和元年」となっている。

何故この様に不可解なことが起こったのだろう。

思うに、この時朝廷内ではいわゆる「明治天皇替え玉事件」が起こっていたのではないだろうか。


「明治天皇替え玉説」とは、即位前の「睦仁親王」と即位後の「明治天皇」は「替え玉」、すなわち「別人」であるとする説である。

この説によると、孝明天皇崩御後、薩長両藩が睦仁親王を暗殺し(一説には比叡山に追放したとも)、長州藩が庇護していた南朝後醍醐天皇の子孫を称する「大室寅之祐」と言う人物を、睦仁親王にすり替え、明治天皇として即位させたと言われている。

また一説には、薩長両藩が孝明天皇をも暗殺したとされている。

この説は真偽の程について様々な議論があるが、とかく皇室の歴史には一般の人々が知ることを許されない「タブー」が多く存在する事は事実だ。

実際古代史の研究で「倭国」「日本国」「大和朝廷」は「それぞれ別の政権であり、別の王朝だった」ことを私は知っている。

これを言うと「天皇家の万世一系を否定している」などと言われがちだが、それでもこの三王朝は互いに混血しており、その血筋は間違いなく現在の皇室にまで続いている。

そのためにこの三王朝の家系が「万世一系の天皇家の系譜」として一つににまとめられてしまっており、今ではその事実が分からなくなっていて混乱しているのだが、この事は別の記事で発表するとして本題に戻ろう。


私がこの「明治天皇替え玉説」について検証してみたところ、即位前の睦仁親王と即位後の明治天皇には、明らかに「別人」と思われる証拠が以下の通りいくつも見つかった。



即位前(睦仁親王)

<容貌>
幼少の頃に種痘を受けたので故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。

<体格>
細身で華奢。

<性質・性格>
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、宮中に不審者が三百人以上侵入するという騒ぎがおこり、砲声と女官達の悲鳴に驚いた当時13才の睦仁親王は、パニックの中で卒倒・失神した。
親王は幼少より虚弱体質であり、毎年風邪をこじらせていた。また、宮中で女官と一緒に「お遊戯」にいそしんでおり、政務にも無関心であったと言う。

<文字>
睦仁親王の書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。

<乗馬>
即位前の睦仁親王に乗馬の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。

<利き手>
睦仁親王は右利きだった。御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され、当然しつけも厳しかったので、左利きになる訳が無い。

<思想>
基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。

<政治能力>
睦仁親王の生母・中山慶子自身が、父である忠能に宛てた手紙によると、「当今様おん事(睦仁親王)じつにお案じ申し上げ、悲観のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず」とある。

睦仁親王の実母である中山慶子自身が、「親王は特別名君ではないため、このような国難の時期には内外をとても治める器ではない」と悲観している。


即位後(明治天皇)

<容貌>
天皇は「痘瘡(天然痘)」に罹った跡があり、その結果、口の周りに「あばた」が残った。その後、「あばた」を隠す為に髭を生やされたと言う。

<体格>
体重24貫(約90Kg)の巨漢で威風堂々とし、恰幅が良かった。また側近の者とよく相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。

<性質・性格>
明治天皇は威風堂々馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
学問にも熱心であり、教養豊かであった。

<文字>
天皇は書が「達筆」であった。

<乗馬>
天皇は禁門の変の4年後の慶應4年(1868年)1月、「鳥羽伏見の戦い」の際、乗馬して馬上豊かに閲兵した。

<利き手>
天皇は左利きだった。

<思想>
基本は「倒幕開国」(反幕府=薩長派) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。

<政治能力>
明治天皇の優れた統治能力により、日本の開国・近代化が実現。また「軍人勅諭」「教育勅語」など、軍事・内政に関しても自ら国民に指針を示した。
国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得した、日本の歴史上稀に見る「名君」であり、史家の間では「偉大な天皇」との意味を込めて「大帝」と呼ぶこともある。



いかがだろうか。

同じ人物でも即位前と即位後の数年間を比較し、ここまで違うものだろうか。

仮に数年間で睦仁親王が急激に成長し、書や乗馬、政治や学問、果てには相撲に至るまで、目ざましく知識や技術を身につけ、身体的にもたくましくなって後の明治天皇になったとしよう。

しかし「容貌」や「利き手」はどうしたって変えようがないのだ。

ここまでの証拠が揃っている以上、睦仁親王と明治天皇は「別人である」と言わざるを得ない。

つまり「明治維新」とは「王朝交替のクーデター」であった可能性が高いのだ。

これは南北朝合一以来、ともすれば皇族としての地位を失っていた「南朝天皇家の末裔」にとっては500年来の悲願であった。

またこれは、「朝敵」とされた長州藩の「起死回生の策」だったと思われる。

思い出して欲しいのだが、長州藩の「尊皇攘夷主義」は非常に過激なものだ。

あの「池田屋事件」の発端となった長州藩の計画も、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉。一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」事だった。

そして孝明天皇は長州藩を「朝敵」「逆賊」に認定した、いわば「仇」である。

理由はどうあれ、天皇の御座所である御所内に兵を率いて攻め入る程の長州藩である。

その長州藩が「天皇をすげ替えて自分たちの有利に事態を進めよう」と考えていたとしても不思議ではない。

これを示す記録として、「明治天皇紀」に「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と記されており、「中山日記」にも「寄(奇)兵隊の天皇」と記されていると言う。

「奇兵隊」とは長州藩の高杉晋作が組織した軍隊なので、これは暗に「奇兵隊(長州藩の兵隊)が連れてきた天皇」の事を意味しているのだ。


また明治43年頃、南朝・北朝正当論議が学問の場で盛んになった時、その論議に外ならぬ明治天皇が「南朝が正当の王朝である」と述べて幕を下ろした。

しかし孝明天皇は北朝天皇家の子孫であり、孝明天皇の子であるなら当然明治天皇も北朝である。

明治天皇が「南朝が正当の王朝である」と言うことは、とりもなおさず、自らの皇位の正当性を否定することである。

これも明治天皇が、「南朝後醍醐帝の末裔・大室寅之祐」だったとすれば、説明の要はないのだ。



この「明治天皇の即位」以後、薩摩・長州を中心とする「薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前の4藩)」は「天皇の軍隊=官軍」となり、敵対する幕府や会津藩などは、知らないうちに「朝敵」「逆賊」とされ、全く立場が入れ替わってしまう事となった。




続く

閑話休題 日本史に於ける呉越 ④

薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩として大きな影響力を持ったが、薩摩藩が、公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相いれない立場にあった。

薩摩藩は8月18日の政変で会津藩と協力して長州藩勢力を京都政界から追放、翌年の禁門の変では上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え敗走させるに至り、両者の敵対関係は決定的となった。

禁門の変の結果朝敵となった長州藩は、相次いだ「馬関戦争」「第一次長州征討」など、非常な窮地に陥ることとなった。

1865年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた。

高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行う。

「元治の内乱」である。


一方の薩摩藩でも文久2年8月21日(1862年9月14日)、横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士が殺傷する、「生麦事件」が発生。

翌文久3年7月2日(1863年8月15日)、生麦事件の解決を迫るイギリスは艦隊を薩摩に派遣し、薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を脇元浦において拿捕する。

これを宣戦布告と受け取った薩摩藩は、正午に湾内各所に設置した陸上砲台(台場)の80門を用いてイギリス艦隊に先制攻撃を開始。

「薩英戦争」の開戦である。


イギリス艦隊は、蒸気船を失った薩摩藩が戦意喪失すると考えて油断していたため応戦が遅れたが、100門の砲を使用して陸上砲台に対し艦砲射撃で反撃した。

うち21門が最新式のアームストロング砲であった。

イギリス艦隊司令のキューパー中将は、拿捕した白鳳丸、天佑丸、青鷹丸を保持したまま戦闘することは不利と判断し、貴重品を持ち出してから3艦を焼却した。

イギリス艦隊は台場だけでなく鹿児島城や城下町に対しても砲撃・ロケット弾攻撃を加え、城下で大規模な火災が発生した。陸上砲台や近代工場を備えた藩営集成館も破壊された。

薩摩藩の砲はイギリス艦隊に比べると射程距離が短かく、性能も劣っていたが、荒天のため艦隊の操艦が思うように行かず砲の照準も定まりにくいイギリス艦隊は予想外の苦戦を強いられた。

また薩摩藩は湾内沖小島付近に、集成館で製造した地上より遠隔操作できる水中爆弾3基を仕掛けて待ち伏せしていたが、艦隊は近寄らず失敗した。

10月5日(11月15日)、 幕府と薩摩藩支藩佐土原藩の仲介により代理公使ニールと薩摩藩が横浜のイギリス大使館で講和。

薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払う。

イギリスは、薩英戦争後の交渉を通じて薩摩藩側を高く評価するようになり、薩摩藩との関わりを強めていくこととなる。

一方の薩摩藩も欧米列強の軍事力を前に攘夷の難しさを痛感し、また自藩の主張する幕政改革の展望を開くことができず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていくこととなった。


こうして「馬関戦争」「薩英戦争」を通じて欧米列強と戦った両藩は、この後急速に接近する。

長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。

土佐藩の脱藩浪人で長崎で貿易商を営んでいた坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進めらた。

下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、慶応2年1月21日(1866年3月7日)、薩摩藩主席家老・小松帯刀邸で坂本を介して薩摩藩の西郷・小松と長州藩の木戸貫治が6か条の同盟を締結した。

「薩長同盟」の締結である。


一方「元治の内乱」に危機感を募らせた14代将軍・徳川家茂は大坂城へ入り、「第二次長州征伐」を決定する。

しかし萩口からの攻略をを命じられた薩摩藩は、薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否したため萩口から長州を攻めることができず、4方から攻めることになった。

幕府は大目付永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。

1866年(慶応2年)6月7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、13日には芸州口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。

征討軍は守備兵を容易に退け大島へ上陸・占領を果たしたが、占領した集落で松山藩兵が住民に暴行・略奪・虐殺を行った惨状の結果、大島住民の敵意と長州藩兵の士気を高め、同時に奪還論が強まり長州上層部は大島放棄から大島奪還に方針転換。

小倉口を担当する高杉晋作や本土防衛と芸州口の対処のため柳井に駐留していた世良修蔵が大島奪還の為に来援する。幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、夜間奇襲戦法により幕府海軍は敗走した。

その後、世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが大島の奪還を果たすも、島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討が終戦まで続く。

芸州口では、長州藩および岩国藩の連合軍と、幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が行われる。

彦根藩と高田藩が小瀬川であっけなく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に代わって戦闘に入ると、幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着状況に陥る。また芸州藩は幕府の出兵命令を拒んだ。


石州口は、大村益次郎が指揮し、中立的立場を取った津和野藩を通過して徳川慶喜の実弟・松平武聰が藩主であった浜田藩へ侵攻し、18日に浜田城を陥落させ、明治まで浜田城と天領だった石見銀山は長州が制圧した。


最大の激戦地であった小倉口では、総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉晋作・山縣有朋ら率いる長州藩との戦闘(小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われたが、小笠原の指揮はよろしきを得ず、優勢な海軍力を有しながら渡海侵攻を躊躇している間に6月17日に長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われる。

その後も小笠原の指揮の曖昧さもあって諸藩軍・幕府歩兵隊とも積極的に戦おうとはせず、小倉藩が単独抗戦を強いられる状態だった。また佐賀藩は出兵を拒んだ。

7月下旬の赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川家(元・小倉城主)の軍が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せた。

しかし依然として小笠原総督の消極的姿勢は改まらなかったことから、肥後藩細川家を含む諸藩は一斉に撤兵し、孤立した小倉藩は8月1日小倉城に火を放って香春に退却した。

その後、小倉藩は家老・島村志津摩らの指導により軍を再編して粘り強く長州藩への抵抗を続け、戦闘は長期化してゆくこととなるが、これで事実上幕府軍の全面敗北に終わる。


将軍後見人・一橋慶喜は、大討込と称して自ら出陣して巻き返すことを宣言したが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止。

さらに7月20日、将軍家茂が大坂城で急死したことが知らされると、ここに一橋慶喜は朝廷に働きかけ、休戦の御沙汰書を発してもらう。

慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息した。

しかし朝廷の停戦の勅許と幕府・長州間の停戦合意成立にもかかわらず、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しなかった。

やがて企救郡南部の小倉藩の防衛拠点の多くが陥落するに及んで小倉・長州両藩間の停戦交渉が始められ、1867年(慶応3年)1月にようやく両藩の和約が成立している。

この和約の条件により、小倉藩領のうち企救郡は長州藩の占領地とされ、1869年(明治2年)7月に企救郡が日田県の管轄に移されるまでこの状態が続くこととなった。



続く

閑話休題 日本史に於ける呉越 ③

長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである8月18日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。

しかし尊皇攘夷派は勢力挽回を試みており、これを察知した京都守護職である会津藩主・松平容保は配下の治安維持組織である新選組を用いて市内の警備や捜索を行わせた。

政変の翌年である1864年5月下旬頃、諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らの探索によって炭薪商を経営する古高俊太郎の存在を突き止め会津藩に報告。武器や長州藩との書簡等が発見された。

古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。

自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉。一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものであった。

さらに探索によって、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊皇派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めた。

元治元年6月5日(1864年7月8日)、京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派志士を新選組が襲撃、尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩らの逸材が戦死し、大打撃を受ける。

世に言う「池田屋事件」である。

御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いたが、長州藩の福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を天皇に訴える」ことを名目に挙兵を決意。

長州藩毛利家は、激高した強硬派に引きずられる形で率兵上洛する。

益田右衛門介・久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司信濃・来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えた。

この不穏な動きを察知して、薩摩藩士・吉井幸輔、土佐藩士・乾市郎平正厚、久留米藩士・大塚敬介らは議して、長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、同7月17日朝廷に建白した。

朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、18日夜には有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。

禁裏御守衛総督・一橋慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。

7月19日、京都蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。

いわゆる「禁門(蛤御門)の変」である。


一時長州勢は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退、御所内で来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らは戦死した。

帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。

戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火で京都市街は21日朝にかけて「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。

朝廷は京都御所へ向かって発砲を行ったことと、毛利敬親・定広の藩主父子が国司信濃に与えた軍令状が発見されたことを理由に、23日に毛利敬親の追討令を発し、幕府に対して長州征討の勅命を下す。

ここに長州藩は「朝敵」となった。


禁門の変で敗れた長州藩であったが、さらに新たな苦難に直面する。

8月5日、前年の馬関海峡に於ける外国船への砲撃の報復として、英国のキューパー中将を総司令官とするイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からからなり、総員約5000の四国連合艦隊の砲撃を受けることとなる。

「四国艦隊砲撃事件(下関戦争・馬関戦争)」である。

艦隊の来襲が近いことを知った長州藩は海峡通航を保障する止戦方針を決め、交渉を始めようとしたが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。

下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊など2000人、砲約120門、禁門の変のため主力部隊を京都へ派遣していたこともあって弱体であった。

大砲の数が足りず、木製の砲をつくってダミーとすることもしていた。

8月5日午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始。

長州藩兵も応戦するが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられ、四国連合艦隊は前田浜で砲撃支援の下で陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊する。

6日、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監・山縣狂介は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れるが、艦隊はすぐに態勢を立て直して発砲しつつ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。

7日、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲した。

8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊され、陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式の後装ライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退。

8月8日、いよいよ進退極まった長州藩は、講和使節の使者に高杉晋作を任じた。

18日に長州藩は下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。


さらに追い打ちをかけるかのように、幕府は長州征討の勅命を受け、前の尾張藩主徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させる。

「第一次長州征伐」である。

長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂し、三家老等の強硬派に代わって保守派が政権を握っていた。

征長総督参謀の西郷隆盛は、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、長州藩はこれに従い恭順を決定する。

幕府側はこの処置に不満であったが、12月には総督により撤兵令が発せられた。

しかしこの幕府側の不満は的中する。

翌1865年の長州藩の政変による倒幕政権の樹立と薩長同盟、1866年の第二次長州征伐と出征中の将軍・徳川家茂の急死により幕府権力は衰退し、1867年の孝明天皇崩御に伴う明治天皇即位、そして大政奉還と戊辰戦争・明治維新に発展していく。




続く

閑話休題 日本史に於ける呉越 ②

さて、関ヶ原の戦いから250年が経過し、1853年の「太平の眠りを醒ます蒸気船」、いわゆる「黒船来航」により、日本は幕末の動乱に突入する。

この時、尊皇攘夷が最も盛んだった雄藩のひとつが、関ヶ原の戦いで減封のうえ国替えとなった、長州藩の毛利家である。

この「尊皇攘夷」という言葉だが、これももともとは中国の故事である。

尊王攘夷とは、王を尊び、外敵を撃退しようとする思想で、古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄を打ち払うという意味で春秋の覇者が用いた標語である。

周王朝の天子は「王」の称号を用いていたため、本来は「尊王攘夷」なのだが、日本の天子は「天皇」であるため、「王」を同じ発音である「皇」に置き換えた「尊皇攘夷」が我が国では一般的となった。


1863年、将軍・徳川家茂が天皇に対し、5月10日を攘夷決行の日とすることを約束。

長州藩はこれを受けて下関に砲台を構え、5月10日、馬関海峡を通過するアメリカ商船を砲撃、攘夷を実行に移す。

しかし長州藩が欧米艦隊から報復攻撃を受けるに及んで他藩はこれに続かず、攘夷実行を約束した将軍家茂も、6月には京を離れ江戸に帰ってしまう。

この長州藩の窮状を打開し、国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)が尊攘急進派によって企てられた。

大和行幸の詔は8月13日に発せられたが、前後して会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を画策。

8月15日、会津藩主・京都守護職である松平容保の了解のもと、 薩摩の高崎正風と会津の秋月悌次郎が中川宮を訪れて計画を告げ、翌16日に中川宮が参内して孝明天皇を説得、天皇は熱心な攘夷主義者ではあったものの、急進派の横暴を快く思っていなかったため、翌17日に天皇から中川宮に密勅が下った。


いわゆる「文久3年8月18日の政変」である。

これによって大和行幸の延期や、尊攘派公家の公職追放、長州藩主・毛利敬親・定広父子の国許での謹慎などの処罰が決議され、長州藩は堺町御門の警備の任を解かれて京都を追われることとなり、19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知などの公家7人とともに、妙法院から長州へと下った(七卿都落ち)。

また政変後、孝明天皇は「去る十八日以後に申し出でし儀の者、これ真実にして朕が意に存ず」としてこれまでの攘夷の勅命を自ら否定した。

なおこの政変に際し、かつての「越」の有力大名で、関ヶ原の敗戦により米沢に減封・国替えとなっていた上杉藩は、公武合体派としてクーデターに加わり、18日に藩兵を率いて御所の警備についている。

かつての「呉越の因縁」はここでも見え隠れしていたのだ。

政変に敗れた長州藩は京都における失地回復を狙い、翌年6月の池田屋事件をきっかけに京都へ出兵、7月の禁門の変で会津・薩摩らと戦火を交えることとなる。



続く

プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

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