スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

閑話休題 日本史に於ける「呉越」①

「呉越同舟」と言えば、普段は敵味方に分かれている者同士が同じ所に居ると言う意味の故事成語である。

呉は今の中国浙江省、越は今の中国福建省に興った、ともに東シナ海に面した春秋時代の国家で、呉王扶差・越王勾踐が、肝を嘗め、薪に臥して、ともにお互いへの復讐を忘れなかった「臥薪嘗胆」の故事が有名である。

これを見ていて思った事がある。

我が国では「呉」と言えば広島県の「呉(くれ)」であり、「越」と言えば古代「越(こし)の国」と言われた今の北陸地方に当たる、「越前・越中・越後」である。

戦国時代に於いて「呉」を治めたのは中国の覇者・毛利家、そして「越」の中でも有力大名だったのが、越後の上杉家だ。

この二大名家は後に豊臣秀吉に臣従し、豊臣政権下でともに五大老家の一員となる。

石高も同じく120万石だ。

そして豊臣秀吉が没した後、この「呉越」の因縁が再燃する事となる。

1600年の「関ヶ原の戦い」に於いて、両家は豊臣方(西軍)に属し、この戦いの重要な役割を担う事になる。

すなわち上杉家が会津で挙兵して徳川勢(東軍)をおびき寄せている間に、手薄になった上方で毛利家当主の毛利輝元を総大将とする西軍が挙兵し、徳川勢を挟み撃ちにして滅ぼすというものであった。

しかし東軍の総大将・徳川家康は老獪であった。

上杉家の抑えを伊達政宗・最上義光らに任せると、小山で兵を引き返し、一路西へ向かった。

こうして東西両軍は「天下分け目」と言われた関ヶ原での決戦に向かうのである。


ところがこの時、西軍の総大将である毛利輝元は大坂城にあって動かず、実際に関ヶ原に布陣したのは、輝元の弟の毛利秀元と毛利一門の吉川広家・小早川秀秋である。

そして戦いが始まると、毛利勢は3万の大兵力を擁しながら、日和見的な立場を取って戦おうとはしなかった。

吉川広家が家康に内通していたからである。

やがて同じく毛利一門である小早川秀秋が東軍に寝返り、関ヶ原の戦いで西軍は敗れた。


この毛利一門の不義による関ヶ原の敗戦は、「第一義」を唱え「義」を何よりも尊ぶ上杉家にとっては、許しがたいものがあったであろう。

上杉家はこの敗戦の責めを負って、米沢30万石に減封されている。


一方の毛利家も、日和見的な立場を取って戦わなかったにもかかわらず、当主輝元が総大将であった責めを受け、こちらも周防・長門37万石に減封となった。

毛利家はのちのちまでこの事を恨みとし、歴代当主は徳川家への復讐の念を忘れなかったと言う。

毛利家には重臣が当主に対し、「徳川家征伐の用意整いました」と告げ、当主が「時期尚早である」と押し止める正月行事が、幕府には内密に続けられていたという。

まさに「臥薪嘗胆」だ。

この毛利家の正月行事は、およそ270年後の「戊辰戦争・明治維新」まで続く事となる。



続く
スポンサーサイト
プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。