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「閑話休題」改め「幕末維新の謎」①- 明治大帝に関する謎 -

ここまでしばらく、「閑話休題 日本史に於ける呉越」として書いてきたが、幕末から明治にかけての最大のクライマックス・戊辰戦争の件に入るにあたり、タイトルを変えてみたいと思う。

戊辰戦争に至る歴史にはとかく謎が多いからだ。

これまでの流れでは、長州藩が「朝敵」「逆賊」とされ、幕府+会津藩+薩摩藩が「公武合体(幕府と朝廷を合体させた新政府樹立)」を唱えてこれと対立してきた。

しかしこの構図がある時を境に崩れるのである。

そのきっかけが、「孝明天皇の崩御と明治天皇即位」そして1868年から始まる「戊辰戦争」なのだ。


慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御。

慶応3年1月9日(1867年2月13日)、祐宮(さちのみや)睦仁親王(明治天皇)、満14歳で践祚の儀を行い皇位に就く。

元服前の践祚であったため、立太子礼を経ずに天皇となっている。

翌慶応4年1月15日(1867年2月8日)、元服。同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて御大礼を執り行い、即位したことを内外に宣下する。



ここで注意深い人なら「おや?」と思うはずだ。

そう、孝明天皇が崩御し、新たに明治天皇が践祚するまで、およそ14日間「皇位の空白」が生じているのだ。

そして孝明天皇が崩御したにもかかわらず、「慶応」の年号が改元されることなく、相変わらずに2年間も使われ続けている。

これには「睦仁親王(明治天皇)が元服前で立太子(皇太子に立てられる)されていなかったからだ」とか、「現代のように皇室典範がなく、規定が曖昧だったからだ」「天皇の崩御を伏せていたからだ」などの意見があるが、果たしてそれだけだろうか。

まず「皇位の空白」であるが、現在の「皇室典範」によれば、践祚にかかる儀式を『践祚の儀』という。

践祚(せんそ)とは天子の位を受け継ぐことであり、「践」とは位に就くこと、「祚」は天子の位を意味し、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。

先帝崩御後直ちに行われるこの『践祚の儀』に続いて、『剣璽等承継の儀』及び新帝が即位後初めて三権の長(内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官)を引見される『即位後朝見の儀』を行うのが規定だ。

これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを「即位」といい、新帝が高御座(たかみくら)に昇って内外に即位を宣言する一連の儀式を『即位の礼』と言う。

当時は皇室典範がまだ定められていなかったが、「践祚を先帝崩御後直ちに行う」のは、第51代の平城天皇以来の「しきたり」であり、この孝明天皇崩御の際に限って、何故践祚まで14日もかかったのかは疑問でならない。


また明治天皇以前は、一代の天皇が一つだけ元号を用いる「一世一元の制」は採られておらず、むしろ天変地異や世の中の吉凶がある度に、元号がころころ変更されてきた。

そして「天皇の崩御」と言えば天変地異とは比べるべきもない、「不幸の中の不幸」「災いの最たるもの」である。

元号が変えられて当然であるべきはずなのに、何故かそれがなされていないのだ

ちなみに孝明天皇が崩御されたのが旧暦の12月25日、新暦ではあるが、1926年の同じく12月25日に崩御された大正天皇の場合、即日改元が施行され、1926年12月25日から「昭和元年」となっている。

何故この様に不可解なことが起こったのだろう。

思うに、この時朝廷内ではいわゆる「明治天皇替え玉事件」が起こっていたのではないだろうか。


「明治天皇替え玉説」とは、即位前の「睦仁親王」と即位後の「明治天皇」は「替え玉」、すなわち「別人」であるとする説である。

この説によると、孝明天皇崩御後、薩長両藩が睦仁親王を暗殺し(一説には比叡山に追放したとも)、長州藩が庇護していた南朝後醍醐天皇の子孫を称する「大室寅之祐」と言う人物を、睦仁親王にすり替え、明治天皇として即位させたと言われている。

また一説には、薩長両藩が孝明天皇をも暗殺したとされている。

この説は真偽の程について様々な議論があるが、とかく皇室の歴史には一般の人々が知ることを許されない「タブー」が多く存在する事は事実だ。

実際古代史の研究で「倭国」「日本国」「大和朝廷」は「それぞれ別の政権であり、別の王朝だった」ことを私は知っている。

これを言うと「天皇家の万世一系を否定している」などと言われがちだが、それでもこの三王朝は互いに混血しており、その血筋は間違いなく現在の皇室にまで続いている。

そのためにこの三王朝の家系が「万世一系の天皇家の系譜」として一つににまとめられてしまっており、今ではその事実が分からなくなっていて混乱しているのだが、この事は別の記事で発表するとして本題に戻ろう。


私がこの「明治天皇替え玉説」について検証してみたところ、即位前の睦仁親王と即位後の明治天皇には、明らかに「別人」と思われる証拠が以下の通りいくつも見つかった。



即位前(睦仁親王)

<容貌>
幼少の頃に種痘を受けたので故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。

<体格>
細身で華奢。

<性質・性格>
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、宮中に不審者が三百人以上侵入するという騒ぎがおこり、砲声と女官達の悲鳴に驚いた当時13才の睦仁親王は、パニックの中で卒倒・失神した。
親王は幼少より虚弱体質であり、毎年風邪をこじらせていた。また、宮中で女官と一緒に「お遊戯」にいそしんでおり、政務にも無関心であったと言う。

<文字>
睦仁親王の書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。

<乗馬>
即位前の睦仁親王に乗馬の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。

<利き手>
睦仁親王は右利きだった。御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され、当然しつけも厳しかったので、左利きになる訳が無い。

<思想>
基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。

<政治能力>
睦仁親王の生母・中山慶子自身が、父である忠能に宛てた手紙によると、「当今様おん事(睦仁親王)じつにお案じ申し上げ、悲観のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず」とある。

睦仁親王の実母である中山慶子自身が、「親王は特別名君ではないため、このような国難の時期には内外をとても治める器ではない」と悲観している。


即位後(明治天皇)

<容貌>
天皇は「痘瘡(天然痘)」に罹った跡があり、その結果、口の周りに「あばた」が残った。その後、「あばた」を隠す為に髭を生やされたと言う。

<体格>
体重24貫(約90Kg)の巨漢で威風堂々とし、恰幅が良かった。また側近の者とよく相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。

<性質・性格>
明治天皇は威風堂々馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
学問にも熱心であり、教養豊かであった。

<文字>
天皇は書が「達筆」であった。

<乗馬>
天皇は禁門の変の4年後の慶應4年(1868年)1月、「鳥羽伏見の戦い」の際、乗馬して馬上豊かに閲兵した。

<利き手>
天皇は左利きだった。

<思想>
基本は「倒幕開国」(反幕府=薩長派) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。

<政治能力>
明治天皇の優れた統治能力により、日本の開国・近代化が実現。また「軍人勅諭」「教育勅語」など、軍事・内政に関しても自ら国民に指針を示した。
国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得した、日本の歴史上稀に見る「名君」であり、史家の間では「偉大な天皇」との意味を込めて「大帝」と呼ぶこともある。



いかがだろうか。

同じ人物でも即位前と即位後の数年間を比較し、ここまで違うものだろうか。

仮に数年間で睦仁親王が急激に成長し、書や乗馬、政治や学問、果てには相撲に至るまで、目ざましく知識や技術を身につけ、身体的にもたくましくなって後の明治天皇になったとしよう。

しかし「容貌」や「利き手」はどうしたって変えようがないのだ。

ここまでの証拠が揃っている以上、睦仁親王と明治天皇は「別人である」と言わざるを得ない。

つまり「明治維新」とは「王朝交替のクーデター」であった可能性が高いのだ。

これは南北朝合一以来、ともすれば皇族としての地位を失っていた「南朝天皇家の末裔」にとっては500年来の悲願であった。

またこれは、「朝敵」とされた長州藩の「起死回生の策」だったと思われる。

思い出して欲しいのだが、長州藩の「尊皇攘夷主義」は非常に過激なものだ。

あの「池田屋事件」の発端となった長州藩の計画も、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉。一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」事だった。

そして孝明天皇は長州藩を「朝敵」「逆賊」に認定した、いわば「仇」である。

理由はどうあれ、天皇の御座所である御所内に兵を率いて攻め入る程の長州藩である。

その長州藩が「天皇をすげ替えて自分たちの有利に事態を進めよう」と考えていたとしても不思議ではない。

これを示す記録として、「明治天皇紀」に「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と記されており、「中山日記」にも「寄(奇)兵隊の天皇」と記されていると言う。

「奇兵隊」とは長州藩の高杉晋作が組織した軍隊なので、これは暗に「奇兵隊(長州藩の兵隊)が連れてきた天皇」の事を意味しているのだ。


また明治43年頃、南朝・北朝正当論議が学問の場で盛んになった時、その論議に外ならぬ明治天皇が「南朝が正当の王朝である」と述べて幕を下ろした。

しかし孝明天皇は北朝天皇家の子孫であり、孝明天皇の子であるなら当然明治天皇も北朝である。

明治天皇が「南朝が正当の王朝である」と言うことは、とりもなおさず、自らの皇位の正当性を否定することである。

これも明治天皇が、「南朝後醍醐帝の末裔・大室寅之祐」だったとすれば、説明の要はないのだ。



この「明治天皇の即位」以後、薩摩・長州を中心とする「薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前の4藩)」は「天皇の軍隊=官軍」となり、敵対する幕府や会津藩などは、知らないうちに「朝敵」「逆賊」とされ、全く立場が入れ替わってしまう事となった。




続く
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プロフィール

yoshi

Author:yoshi
1977年生まれ。

10歳で「ノストラダムス」本を読み始め、14歳で加治木 義博氏の著書「真説 ノストラダムスの大予言」に出会う。

その後20歳を過ぎてから、生来の「不思議好き」「歴史好き」もあって、加治木氏の著書をもとに独自の考察を加えながら、本格的に「ノストラダムス」「古代日本史」の研究を趣味で始め、現在に至る。

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